臼田橋の由来
【もろもろ小諸】臼田橋の由来
本町から相生町に抜ける「おふらや小路」、松井川に架かる「臼田橋」は個人で開道、架橋された。小諸商人の心と力を感じる。由来がレストラン車留夢の入口に掲げられている。
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「おふらや新道と臼田橋の由来
明治二十一年信越線が開通した頃は小諸驛へ直行する主要道路がなく、
本町方面から停車場への往来は現在の東電前からパリの湯前を経て筒井町へ抜ける迂回路に頼っていた。
因って明治三十六年当時本町在住の呉服太物商臼田彦五郎義敬が、菱野、六供、本町地区から停車場への交通の便を図るため私有地を開鑿(かいさく)して本町より現在の相生町への開道と中間を流れる松井川への架橋を計画したが、たまたま日露両国の開戦により延計し開道と架橋の完成は明治四十四年七月、道路はおふらや新道 架橋は臼田橋と名づけられて私道として漸く竣工した。
この橋と欄干は以来 幾星霜の洪害にも耐えて来て大正時代を迎えると町並は繭糸業隆昌殷賑を窮めてこの橋を荷馬車や貨物自動車の往来すること頻繁となり奔走する荷馬車の車輪に激突されて欄干の損傷することも屡々(しばしば)、修復費もまた巨額に及んだ。
下って昭和初期の不況が到来するや道路および橋梁も漸くその傷みが甚だしく修復維持の困難なるため当市へ寄進し現在は市道に編入管理されている。
橋の欄干擬宝珠は京都五条大橋のものを象りて作成された臼田橋架設の初代のもので当時としては雅趣あるもので、あったが損傷による橋梁掛け替えに当り小諸市から記念品として返還され現在はレストラン車留夢の庭に展示されている。」