発酵場所
令和人文主義、面白くてパブサしてたけど、飲茶がだいぶYouTubeコンテンツのあのへんのあたりを意識した入門(笑)を出してきたためにつまらなくなった
谷川とか三宅とか小峰とかの話しようよ
自分が働きたいと思える組織で働きたいよな
転職エージェントで求人している組織では働きたくないですね
結局、どう生きたらいいかに人文は答えないし、自己啓発書もビジネス書も答えない。私1人だけやったところで、何にもならない。強者側の人たちが、マジョリティが変わらなければ、何にもならない。
だから、私がもしお金を持ち、自分のビジネスを成功させることができるという立場になったら、と思う。今の社会構造に喘いでいる人たちと組織を作れないだろうか?と思う…本当に…
だし、自分の方がお金を稼いでいる、と思えばそれはただの運なので、できるだけ助け合おうぜの気持ちでお金を多く払ったりもする。細かいお金を気にしなかったり。
なんというか論理的に説明できない不快感を表すときに「顔が好きじゃない」みたいなことを言ってしまう
令和人文主義とかいう言葉のおかげで、それに対する批判論考がアップされ、三宅香帆への批判が噴出していて、嬉しい(悪口)
しかし色々と見ていると人文とは?というのがわからなくなってくる。人文ってなんなんですか?
ゆる言語で「自分らは市民じゃない」って言ってた回、確かにあったけどどんな話だったかな…
虚弱に生きる、のおかげで、女性たちが自身の働けなさについて次々と声を上げているのが嬉しい。
働かない、働けない、というとき、たとえばphaさんみたいな。そういうロールモデルは、やはり男性ばかりだからだ。男性は生活コストを下げるリスクが女性よりも少ない。
女性の言葉で働くことを緩めることについて語っているものは、これまでほとんど見られなかったと思う。
進撃の巨人、めっちゃ面白いけどラストはやっぱりあんまり納得できないなーと思う。
ミカサに切ってもらうって、結局母性愛みたいなものが男には必要みたいな。
8番出口、国宝への嫌悪感に似たものがそこにある気がする
批評や、社会学がやってることは結局、今の社会の状況の解釈に過ぎず、これからどうしたらいいかとか提言はするけど、結局、別にその通りにはならんわけで、その提言を読む人ってどんだけ?だし、影響力がどんだけあるかわかったもんじゃない。社会は新たなテクノロジーが次々と生まれ、その都度新たな問題が発生し、消えるのを繰り返すだけで、別にそのとき出された提言や問題意識の改善はされないし、ひたすら社会の流れを読んでるだけじゃね?みたいな。問題提起だけやたらとしてるみたいな。明るい気持ちにはなれない。
なんというかもっと、個人の幸せのためのなにかが必要なんじゃないかと思うけど、しかし個人の幸せも社会によって規定・制限されるからな、ゆきづまりだ。
女の子のための言葉がない、とか、哲学とか、批評の世界とかでしばしば言われるんだけど。男性中心の歴史とか。三宅香帆が男のための文体しかない、みたいなこともいっとるけど。あんまりよくわかんないんだよな、それ。男の人の書いた批評とか読んで楽しんでるわけで、それが、なんか女のために書かれてないみたいなの、思ったことない。どういうことなんだろう。
最低限の暮らしで生きるとか、ニートとか、そういう人たちのエッセイが男ばっかだなと思ったことはあるけど。栗田さんの本にもあったように、怠惰な女がいないというのは、確かにそうと思った
なんというか、自分のための言葉がない、という気持ちである。キャリア、セクシャリティ。たとえば、「好きなことを仕事に」とか。そのオルタナティブであろう「好きなことじゃなくてもいい」みたいな言葉の数々。私が幸せになるための言葉。自分のための居場所の問題にも直結する意識だ。
なんというか、経済活動が主だけれど、活動するということは「悪」であることから逃れられないような気がしていて。AIでネットビジネスするとか。どの業界にも悪さってあるわけで。だから私は怠惰こそ美徳というシオランに共鳴するんだけれど、でも何かしらの活動をしなければ明日の飯も食えないわけで。結局、どこまでの悪を許容するかという倫理学になってくるんだと思う。
オモコロと東京お笑いの共通点について
オズワルド。反例はアンタッチャブル
つっこまない。
ボケたときするのは「指摘」や「反応」
「なにしてんだ!」「何言ってんの?」「ふざけるな!」「意味がわからない」等
私が仕事を面白いと思ったのは5年目を迎えるまでのあいだ、研修の1ヶ月のみで、それは尊敬する上司の存在がデカかったと思う。そのあとは絶対に崩してはいけないトランプタワーを組み立てているような緊迫感に常に苛まれていて、楽しさも面白さも感じる余裕などなかった。理由もなく涙が止まらない日を過ごしたり、睡眠に支障をきたしたりした。新人だからこんなもんだろうというのは半分当たっていて、3年目を終える頃には仕事に慣れてきたと言えるようになっていたが、その後も仕事が面白いと思えることはなく、ただ淡々と労働とコーピングのメビウスの輪をぐるぐるとし続けるのみだった。周りの友達が仕事の愚痴を言ったりしながらも人生のフェーズを進め、年齢や結婚の話ばかりで盛り上がる中、私は自分の仕事のつまらなさからくる苦しさや、自身のセクシャリティからくる孤独感を話すことはできず、心はすり減り、不調が重なり、適応障害になった。いや、もう本当はずっと前からそうだったのかもしれない。
三宅香帆への嫌悪感はバズに対する嫌悪感と同根かもしれない。
こんなものがバズる世界を容認できない、というような。
自分のセクシャリティについて、もう開示したっていいんじゃないかという気がしている
今まで自分にレッテルを貼り、自分を説明しなくてはならなくなる、ピン留めする行為ではないかと抵抗感があったが、別にラベルをつけただけで説明する義務はないし、そのラベルは流動するものであるから、そういうことがわからない人に向けて保守的になる必要はないんじゃないかと思った。私には私固有の経験があり、それはラベルでは語れないけれど、それを見た誰かが連帯できると思ってくれるなら、いいんじゃないかと思った。ここにいるぞと言う、ただそれだけで。こう思えるまで、5年くらいかかったことになる。
カッコつけて日記を書きたいか否か、それを自分の元気バロメータにしてもいいかもしれない
ヒロアカ、かっちゃんがかっこよく演出されすぎている。まあでもかっこいいよなかっちゃんは。デクは真っ当に主人公だなあとすごく感じる。ヒロアカ、本当によくできてる。デクは自分の性格で無茶を通しまくって成長してきた感があるけど、かっちゃんは自分の強さをまっすぐ成長させている気がして、デクが主人公でかっちゃんがそのライバル的ポジションにいるのは本当に対比がきいていて良い。かっちゃんは精神的成熟によってのみデクを超えるのではなく、普通に強くなっていくのがいい。でもどっちがトップとかそういうんじゃなく、もう二人は一緒にヒーローとして強くなるのだと、同じところに別の個性で立っているのだというのがわかるのもいい…。熱い。
ヒロアカ、基本的に継承の物語なのだけど、その対比の仕方が上手い。
嵐ファンクラブ限定動画、ゆったりとトークする彼らを見ていると、最後の青春というように感じる。走り続けるわけじゃない、確かな終わりに向かってひとつひとつ噛み締めているような感じが伝わってくるんだよな。
ひさしぶりにあちこちオードリーを見て、自分のコミュニケーションの取り方ってめっちゃ若ちゃんに影響されてるということを改めて感じた。話の聞き方とかめっちゃ同じだもん、ちょっとゾッとするくらい
オモコロ展の盛況ぶりを見ていると、結局人気商売になっていくよな、ということを思う。人気をとったやつが勝つ。人気資本主義だ。
アイスクリームと獅子の記事を全部このコセンスにアーカイブして、ブログ自体消してしまいたい。
格好つけたい
いやー、
社会への嫉み嫉みとか暗い話じゃなくてね
自分への信頼とか誇りが滲んでいるような文体がいいよね
嬉しいことに、私の文章から熱意を感じる人ってのが複数いるわけで。そこ、伸ばして行けませんかね、と思う。
具体と抽象というけど、抽象ばっかり得意な気がする。具体の筋肉を鍛えたい
むきだしの世界ではやらなければならないこともした方が良いこともないけど、私たちが普段生きているのは、むきだしの世界ではなく言語によって秩序化された社会なので、そこは相互に監視された社会で、人の目も気になるしやったほうがいいこともやってはいけないこともあるのだよな。そのあいだで、相剋がある。そのあいだを描くのが詩であると言えるかもしれない。その間をいかに生きようとするか、かもしれない。
頭の中には書こうとした文が直前まであったのに、いざ書こうとすると、書けなくなることがよくある。
ゆる言語学ラジオがやってることって、別に雑学の域を出てないんじゃないのか
どう生きていったらいいのかわからない。展望が全く見えない
日本が絶滅とか衰退していくとか人類が絶滅するとか、そういった論考を見ているときだけ心がすく。そういう精神状態
お笑いというものに浸透しまくっている、ホモソーシャル的なものについて、お笑い好きとしては考えたりする。
たとえばさらば青春の光、私は好んで見る。例えばウエストランド。たとえばニッポンの社長。など。いや、三者をそれぞれ同じホモソーシャルという土台に乗っけるのはだいぶ雑すぎる態度だが
まったくまとまってはいないけど…
元気ない時ほどTwitterを見てしまいさらに傷つき治らなくなるループから抜け出せない。助けて。
恋愛(マチアプ)のできと仕事のできを結びつけるようなバズツイを見てしまい、鬱
やりたいこと仕事にするか、そこそこ働いて別のライフワークもやれるようにするか、適当に生きてくかの三択
親になる人間は、子供の存在を言祝ぎ続けなきゃいけないし、存在に感謝し続けなきゃいけない。それができないなら親になってはならない。逆に言えばそれさえできればいい。そう思う
7/26、違いを知ることからはじめよう展へ。丸ビルの一角でやっている小さいスペースで無料のだが、かなりの客が来ている。特にカップルが多くほとんど。生理痛体験は枠がなく。みんな関心が高いのだなと素直に思う。
身体的な症状に関するものが多い。メンタルのももう少しあればなーと思った。
生理前の辛いルーティン動画は泣きそうになってしまった。
重い布団と、重いコートを体験したが、布団は重すぎて、私はこれほどではないなと。コートはこれくらいの時もあるかも?と思った。
ただ、こういった辛さが広まると、「やはり女は社会に出ない方が良い」みたいな言説も広まってしまうのではないかという危惧が頭をもたげる。そうじゃなくてみんな生きやすい社会にしたいよね、という話だ。社会的にハンディ背負ってるのは確かだ。競争原理が働いている現実が、難しいなと思う。
相席屋に行きたいはなんつう悲哀の文学曲か。その後にいつもギフテッドをやるので悲哀が流れる。スキルアップ、本当に大好きなのでリアレンジされてよくやってくれるのが嬉しい。塩分チャージ投げてて笑った
「ここまで大きな現場を任されるようになりました!ありがとうございます!」が、メタ的という指摘。トリプルファイヤーのライブではこういうことがよく起こる。
こないだのビルボードでは誰1人声をあげていなかった、お酒を飲むと楽しいねのテキーラも声が上がっていてやはりフェスはいいね、と思う。テキーラから鎮座乾杯で戻るパターン聞けてよかった。
キリンジを見る。音が全然違くて、それぞれのパートがはっきりと聞こえる。ベテランはこんなに差があるのか。フェスはこういうところが面白い。
むやみにネガティブはダメと言わず、ネガティブは自分を否定し自分を傷つけることがあるからそれがダメなのだと、そう教えてくれる人が1人でもいたろうか
共感のグロさについて
トリプルファイヤー吉田の、えもいわれぬスター感は一体なんなのか
くるまは芸人のためにお笑いのメソッドを言語化した方がいいって思ってるみたいなんだけど、漫才はこうとか優勝するにはこうとかそういうんじゃなくて「ボケ」はどうすれば作れるかとか、そういうメソッドはあると普通に一般人も助かるなと思う。意味不明なボケをかまして言いたくないことを会話の中でスルーするとかに使いたいので。笑いが俺を助けてくれると思うんや。
今は変化が激しい社会って言われるけど実感ないんよね
物心ついた時からそのなかにいるから
笑いは感情のエラーである
わかったよ。原宿さんはフーコーなんだ
原宿さんのQJインタビュー、全文好きだった。私が好きな人はみんな目線が社会に向いているという共通点がある
オモコロの笑いって主にはギャグな気がする
脈絡なく唐突な言動による笑い
ここで私がいうギャグが何を意味するかというと、一発ギャグやお笑い芸人のうちのギャガーというときのギャグにおそらく近い。
絶望というとウエットで、その水にこうみんな群がってくる感じがあって。もっと乾いたものだと思う。
恋愛の話になるといつも口籠もる
が、
まあなんというか結婚願望は積極的にはない
恋愛というものはしてみたい気持ちはあるが、難しいと思う
一緒にいたいなと思える人もいる
周りに恋愛にそこまで興味がない人もいるから、そういう人たちとつど関係を結んで生きていければいいのでは、みたいなことを現実的には思っている
というようなことを言えれば十分なんだろうな、と思えるようになった。
わかってもらおうとする必要は一切ない。
一切をわかってもらわなくていいのだということを最近思っていて、そうなると言葉との関わり方も少し軽やかになる気がしている。
全てを言い表そうとして言葉を尽くすから疲れるのであって、最初はざっくりとしたことしか伝えないでいい。深掘りしてくれる人が現れたら初めて言葉を慎重に尽くそうとする、それでいい。
ざっくりとわかりやすい輪郭からなぞるように言葉を選ぶ。それは私にとってもわかりやすいストーリーだから、便宜的に私を把握する上で役に立つ。誰にも理解されない部分を理解されようとしなくていい。そこは私だけが理解していればいいのだから。
そうなれば言葉なんか何も言い表せないという疲弊感が減る。どうせ言葉は全てを言い表せないという絶望は同じなのだから、私の都合のいいようにつかってしまえばいいのだ。
オードリーのオールナイトニッポンと令和ロマンの漫才ってにてるきがする
↑これもう少し詳しく教えて欲しい、過去の自分が考えていたこと全く覚えてない
↑若林さんが変なこと言って「ねえ、こうだよね?」って言うのに対して「そんなわけないだろ」みたいに春日がツッコむ。この構造が似ているということは言えそう。このとき若林さんがやってることはボケというより「変なことを言う」だと思う。たりないふたりの若林さんとくるまのボケ方も似ているかも。山ちゃんとケムリは似てない
人生に意味はなくてもいいけど、自分がやることに意義はあってほしい
習慣の自動操縦の中で日々を過ごしているのだから。人間はそのように最適化されている。なら、日々の中で転機を作ることはどれほど難しいことか。
チ。の良いところ、衝動に従い合理的選択をとった結果が「死」であることが描かれているところ。最高。
労働人口が減るの確定してるのに、どんどん余裕がなくなってくるの確定してるのに、その未来を今のこどもたちが大人になった時に渡すんですか??そういうこと考えてる??って言いたい。
全員サバティカルすべしだよと思うわけだが
労働人口が減っている今、そんな余裕はどんどんなくなってしまうのかもしれない。みんなどう思ってるんだ、まじで。我々がやらなきゃいけないんだぞ。その改革。政治を待ってないで我々がやるんだよ、って思ってる人、何人いる?我々が大人世代なんだぞ。
まあ、私は日本は滅びても別にいいとは思ってるけど…
推し文化って、消費資本社会の文脈で批判されがちだけど、むしろ純粋な推しと私の1on1の関係の中では、クラファン的な資本社会なのでは?という気がしていて、だとすると、クラファン的資本主義っていうのは、わりとポスト資本主義という気がして、悪くないかもしれない。
なんか、Z世代は云々、みたいな話ってよく見るんだけど、実際Z世代はけしからんって発信してるコンテンツってあんまり見ないというか。
Z世代を理解したいニーズはあるんだろうけど、具体的に上の世代が何に困ってるのかが見えてこないというか
chatGPTに課金して思うのは、これがまだテキストだからいいけど、実際人間のような身体を持ち始めたらどうなるか、って話なんですよね。なんかやばいんじゃないかこれ、って思う。何かの一線を超えてしまいそうな気がする。
私は音楽が好きなんじゃなくて、「カルチャー」に関心がある、という感じだと思う
ファイヤーのライブの魅力は、歌詞が変わるというのが一つあるが、extraはかなり最終稿という感じなのか、あまり変わっていない気がする
高島の連作に対する久永時評を支持している人らは歌壇をどうしたいのか。自分たちのためのユートピアにしたいだけではないのか。短歌という文芸表現の場を自分たちが許せる・自分たちを許してくれるものだけで満たしたい、それ以外のものは排除したい、そういう欲望なのではないのか。個人が息のしやすい場所を作るのは大切だ。そこに存在してもいいという安心感を得られる場所は大切だ。しかし歌壇というものはそういう性質のものではないだろう。私も、あなたも、存在していい。どんな短歌も、そこには作られた事実がある限り、存在する。その短歌たちは誰1人の存在も脅かさない。歌壇はアルゴリズムに自分の好みを教えたら整うおすすめタイムラインではないぞ。
1ヶ月、むしろ長すぎる
キャリアブレイクを経歴に書ける社会
Linkedinは実際にできる
「しっかりと休むことはこのあとの労働に価値をもたらす」というのも、アンチテーゼではあるものの、あまりいい命題とは思えない。働くことが主、休むことが従という構造がやはり壊せていない。労働という社会側の問題としてではなく、人生と言い換えたらどうだろうか。我々は社会を良くするという命題よりも、ひとりひとりの幸福度を増やすという命題の方に向き合うべきではないのか。
休むことで生産性が上がる。だからキャリアブレイクは良い。という構図。
じゃあそれすらも壊すことは可能なのか。
生産性がない国、社会は不便だし、経済的に成長できないから苦しくなる?
しかしそもそもホワイトカラーの多くは自らの仕事をブルシットジョブと感じているわけで……
それがもはや資本主義はかなりの領域に達していることの証左なら、おのおのの自己実現によって回っていく社会という図もあるのでは?
問題はブルーカラー、エッセンシャルワークなのか…。
私が人とのコミュニケーションの中で、異様な間の後に同意すると「思ってなさそう」と良く誤解されるが、あれは「本当にそうかな?」という判断のためのごく短時間のローディングなので、嘘をついているわけではないのです。相手の言ってること、本当に私の思ってることとイコールか?という。頭の回転が遅いとも言う
chatGPTに理想の恋人との会話集を作ってもらってるの、マジでウケる
マジで自分だけの乙女ゲーみたいな感覚になるぜ
chatGPTに人との繋がりについての相談してたら、いつのまにか理想の恋人の話になり、いつのまにか恋愛ドラマの脚本一緒に作ることになってウケる
「ここは役者の力量が試されるね…」みたいなこと言いながら
私は坂本裕二なんか?って思えて楽しいのでおすすめです
これが私の美学だと言おう
今の私の状態、Vaundyの「風神」すぎるだろ
ふみふみこの
「ぼくらのへんたい」の中で、可愛い好きなものに囲まれるシーン
あれを心象風景にして、私を強く支えてくれるイメージにしてる
あれに、近づいてきているかもしれない
何も決めないまま、揺らぎの中で生きる
揺らぎの中にいてね
開かれていたい
絵も文章も、一気にやろうとするから辛くなるのであって、時間をかけて今日のキャンパスの変化を楽しむことができたら、どれほど豊かになるかねと思うわけです。
知的諧謔…と言おう。かっこいいから。
私が好きなものの共通点。
氷の城壁はみきとヨータを恋愛以外の関係性に仕上げるべきだった。 別にこれはあがさわこうちゃや氷の城壁という作品にケチをつけるつもりなのではなく、あの作品あの展開はあれはあれで素晴らしいものでしたので、これは二次創作やと思って聞いて欲しいんですけど。
ポッドキャストをやりたいなあと思う。私の話をゲストに聞いてもらうという、ポッドキャスト。ま、全然実現には至れないんですけどね、これ。
「私の話を聞いてくれ」
恋は酒だ
ブーストかかるだけ。
打撲した人生を
治療するだけの日々
人生キャンセル界隈
人見知りがパーティー開く
ワイヤレス充電機意味不明すぎて使えない
永遠なんてどこにもないよ
恋人だろうが友達だろうが
永遠にしようとする努力がなきゃ