正反対な君と僕、違国日記
どちらも、言語的なユートピアだと思う
だから私はこれらの作品に癒される部分もあるし、こういう世界を割と望んでる部分がある。自分の思っていることを誠実に言語化すれば相手に誤解なく伝わる。あるいはその誤解を解くためにまた言語を使う、と、誤解が解ける。なんて素晴らしい世界だろう。
異国日記の朝はどちらかというと言語化があまり得意ではないように見受けられる。槙生は言語化めっちゃ得意だ。小説家である。私は多分槙生にシンパシーを感じる。自分の考えははっきりと言葉で伝えるべきだし、それで伝わったらすごく嬉しい。一方で私は朝でもあって、自分の考えをうまく言語化できないから、人の言葉を探す。インターネットで、本で、お笑いで、誰かが私の代わりに言語化していないか、探す。あるいは師に相談して何か言葉をもらうことで安心する。その人の行動の理由を言語化してもらえると助かる、だから異国日記で描かれるコミュニケーションには居心地の良さを覚える。
でも実際はいくら言葉を尽くそうとしても言葉を尽くすことができなかったり、言葉を尽くせたと思っても相手にはうまく伝わってなかったりといった、コミュニケーションの齟齬が起こる場面はある。めっちゃある。
そういう意味では正反対な君と僕のカップルはそれぞれ全然正反対ではない。同じような言葉を使う共同体の中にいる人たち同士だから。
私はそこにユートピアを見ながら、現実との齟齬にモヤモヤしながら、正反対な君と僕の漫画を読んでいた。
でも乃紫のアニメ主題歌「メガネを外して」の「ねえねえ聞いて言葉を尽くして君に伝えたいの」というところで泣きそうになるし、鈴木が劇中谷に思いを伝えようと一生懸命話すところでもまた泣きそうになる。
異国日記6話、まきおが片付けできないことに批判的な意見をTwitterで見たけど、、、そういうことができなくて困って苦しんでいる人に普通の人の目は厳しいよな、つらい
まきおちゃんの言語化能力はサバイブするために身についたものなんじゃないかと思う。
あんなエロいキスシーンあるかよ。私はああいうエロをめちゃくちゃ最高と思う
朝は槙生の言ってることがわからない、というのが、阿賀沢作品とは違うところだ。
うまく言語化すれば伝わる、なんて幻想。
その幻想が見れるのがフィクションのいいところでもあるけど、あまりに幻想であることを無視しているとき、私はモヤる。
谷と鈴木も、山田と西も、自分の言葉が相手に伝わる時点で、全然正反対ではないのだ。