2022.04.24
近代読書会
三谷太一郎『増補 日本政党政治の形成』東京大学出版会、1995年
第一部 第一章
コメント
○要約
・第一章「郡制廃止問題の政治過程」
1.「問題の背景」
・明治20年代地方自治制:条約改正と中央集権の強化要請を背景、徴兵に並ぶ「義務」
⇔自治基盤の質的相違(行政村/自然村)→自然村の行政村化の為の町村合併
・制度適合的な郡分合⇔進行に遅れ←町村より歴史的基盤が脆弱、府県より必然性が低い
→郡制に対する府県知事、元老院、政府内の反対(郡自治反対論)、民間の郡官治反対論
・郡制改正:大地主選挙資格と郡会議員複選制の廃止←当初想定の大地主の欠如と党争
選挙資格の引き上げ→改正に至るまでの議員の影響は低く、また、政党への牽制の意図
・郡の担当者たる大地主の欠如=郡の自治体的性格の欠如(ドイツとの対照)
→郡長は中央政府によって郡長たり得、よって中央集権志向的性格となる
また、民の代表者たる町村長に対する、官として位置付け(身分/権限)
⇒官に依拠せざるを得ない郡・郡長の性格と、実体的基盤の弱さ、郡事業の少なさ
=日露戦後の町村の利益要求とその媒介者・政党に対する郡の在り方の変容へ
2.「問題の展開とその帰結」
・戦後反動に伴う町村事業と町村委任国政事務の増加→政府、戦時財政の緩和と共に財政基盤の強化を図る=町村の機能的拡大
→空間的拡大(町村合併と町村組合(郡制の代替))の要請=日露戦後の「自然の趨勢」
・郡制廃止の効果:(町村の財政負担(郡費)軽減)、町村長の対町村会権限の拡大
→町村長を軸に町村自治を拡大 この時の町村長は「全国大の名望家」を希望
←官僚の政党化、選挙権拡張の前提となる地方訓化の意図
・郡制廃止主体としての山県系勢力(特に貴族院会派幸倶楽部);精神論で対抗
⇔貴族院内にも廃止賛成派が潜在→ここを中心に貴族院の了解工作⇒貴族院の政党化
・衆議院における多数派工作:大同倶楽部←山県系による影響
憲政本党←不完全な郡制改正とそれによる選挙干渉批判
→この両者の結果的な提携が後の同志会へ=官僚の政党化
・貴衆両院の多数派工作の失敗←両院各勢力の郡制廃止を巡る流動性
→この後再び固定化、政党政治の予備的条件の形成(貴院・官僚の政党化)
〈付論〉「農政と政党」
○郡制廃止への政界外の支持(政費削減の限りで)⇔系統農会/産業組合運動は反対
・農会側の主張:自然町村ごとの町村自治と郡によるその補助→郡制廃止と町村合併反対
→貴族院の議論に反映(農政機関の半官的性格)
・農会の半官的性格:農商務省の外郭団体、明治自治制の系列に沿う農政滲透機関、指導者の構成(山県系官僚勢力)
→政党の排除、原の農政への冷淡さ;政友会の積極主義産業政策≠農業の保護奨励
(「国本培養に関する建議」への対応、農銀・勧銀の自由化=農業金融の保護縮減)
⇔蚕種統一は唯一の農業政策、しかし、その背後には蚕糸業の資本主義化
○コメント
・自治体のレベルとそれ毎の事業・財源について
・条文改正の攻防が面白い。また、明文化は当時としてどれほど影響したのか気になる。(普選の際も同様)
・原が動くか否かで政策の進み方が違うようにみえる
⑤第一章 郡制廃止問題の政治過程
1,問題の背景
明治政府は条約改正と中央集権体制確立のために群による地方自治を目指したが、群長の国家官僚化による中央集権的志向の強まりや軍の財政基盤の脆弱さにより、群は字事態としての固有の存在理由を持たない状態に陥ってしまった。
2.問題の展開とその帰結
要約;原は、日露戦時の地方財政緊縮の反動と国家財政の膨張に伴う町村への国政委任事務の増大の影響による行政町村の機能的拡大と、それに応ずる空間的拡大という時流に乗り、郡制廃止と町村合併や町村制改正などのその時流をより促す政策を行った。
この郡制廃止は町村自治の拡充が意図されていたが、そのための方策である町村長の権力が拡大によって地方利益の要請に応えながら政党の政治的基盤を固めることも同時に目指した。
しかしながら郡制廃止や大町村の創出によって町村自治が解体されると考えた反対派は、明治地方自治制の枠の中で地方制度の刷新を行うべきだと主張した。
〈付論〉
要約:郡制廃止問題は政界外の与論も喚起し、政費削減という観点において都市工業者の賛成を得て、また町村自治は小町村の規模においてのみ可能で、それには郡による柔軟な補助指導が必要であるという意見を持つ農業団体からの反対を受けた。
この農業団体の意見は団体のもつ半官的な性格によって貴族院の反対派に大きな影響を与えたが、蚕糸業の資本主義的発展に伴ってその官僚的農政の役割は縮小し再編を迫られ、原はその状況を利用し、郡制廃止を前提とした鉄道政策の投入を提示した。
コメント
中央集権を目指す国家では、地方のことがなんとなく蔑ろにされているようなイメージを勝手に持っていたため、地方の町村や郡のシステムに関する議論で中央の政治の情勢が大きく揺れ動かされていたというのは少々意外に感じた。
同じ立場に所属しているはずの集団の中でも意見が分かれていたことから、郡制の持つ意味が多岐にわたるということが読み取れた
第二次世界大戦時も、町村の自治が重要視されていた(ような印象を勝手に抱いている)ので、どの時代においても地方自治は国の支配において重要な位置を占めていることがうかがえた
郡制の廃止や地方自治に対する意見が多様で、どの集団がどのような意見を持っているのかがいまいちわからないところがあった
<第一部―第一章>
〇要約
一 問題の背景
明治地方自治制は条約改正を間接的に促進すべき中央集権体制の一環をなすものとして形成されたが、必ずしも十分な実体的基盤を持たなかった。すなわち、行政単位を造出する措置として町村合併および郡分合が必要となるも、郡は本来自治としての固有の存在理由を欠いており、元老院や政府内部でも郡自治反対論、政府外部から郡官治反対論が展開された。明治23年に公布されるも大地主議員制がその実体的担当者を欠き、さらに郡長がその身分及び権限が拡大するにつれて中央志向的性格を強めて国家官僚としての位置を確立した。この他財源や事業の具体的内容など郡固有の物質的基盤の脆弱さも相俟って「人作ノ自治」としての歴史的性格が顕著に表れた。
二 問題の展開とその帰結
郡制廃止は原にとって行政町村の機能的拡大と空間的拡大という「自然の趨勢」に順応した政策として打ち出された。二重の拡大は町村合併の推進と町村組合の拡充を促し、国政委任事務の増大にも対応しうる積極的な町村自治の拡大自体が意図されていた。また権限が強化された町村長は全国大の名望家として、「官僚の政党化」における政党指導者の再生産機構たるべきもの、選挙権拡大に伴い流動する「選挙母体」の管理機構たるべきものであり、彼らを媒介とする政党化の貫徹が原の期待する政治的利益であったと言える。こうした原の見解に対し山県系は全面的に否定し桂内閣において既成町村内の「町村合併」を提起し、郡制と切り離して市制・町村制改正案を提出した。その後双方で了解工作が行われ、後年の政党政治確立のための予備的条件を形成することになったが功を奏さなかった。しかるに原の地方自治の構想は、日露戦後における行政町村の機能的拡大と明治国家解体、「大正デモクラシー」状況化への二重の対応であり、その意味で「進歩的案件」を担った。
<第一部―付論>
〇要約
郡制廃止問題は政界外の「輿論」を喚起し、「政費節減」をもたらしうる限りにおいて同調するものもあれば、系統農会運動及び産業組合普及運動の推進者らの間では郡制は農会発達の前提としての町村自治振興に不可欠であるとして対抗する論が存在した。こうした農業団体の反対論は官僚勢力の反対論にも反映され、逆に官僚勢力も半官的性格を有した農業団体や町村農会を末端とする農政体系に影響を及ぼしていた。しかし原は官僚的農政体系を媒介とする農業政策の推進には関心を示さず、日本勧業及び農工両銀行法改正案通貨に積極的であったところに見られるように、原における「積極主義」は農事改革を優先させるものではなかった。こうした状況下で郡部農村地帯の支持を培養するアプローチとなったのが鉄道政策の投入となる。
〇コメント
・山県の構想する「自治」における「羅馬法的擬制人」と「実在的総合人」とは具体的にどのような人物像なのか
・大地主の存在
→郡会議員の三分の一となっているが郡に何人レベルでいたのか、そもそも大地主全体が自治体レベルでどのくらいの割合で存在していたのか(実体的担当者を欠くとあるが少しばかり捉えにくかった)