宇宙に命はあるのか エピローグ
僕たちはずいぶんと遠くまで旅をした。
150年前のジュール・ベルヌのイマジネーションからスタートしたこの旅で、僕たちはフォン・ブラウンとコロリョフが悪魔の力をも利用して宇宙飛行の夢を実現した現場を目撃し、ニール・アームストロングの「小さな一歩」の影にあった有名ではない技術者たちの活躍を間近から眺め、「そこに何かいるのか、何がいるのか」という好奇心に駆られた科学者・技術者たちがワシントンの指示に逆らってボイジャーを海王星まで送り込み人類の宇宙観を覆すのに遭遇した。
旅は未来へと続き、地球外生命の発見を通して「我々は何者か、どこから来たのか、そして我々はひとりぼっちか」という有史以前からの深遠な哲学的問いに迫る数十年後の未来を訪れ、そして自らが招いた危機を智慧によって解決して地球外文明とのファースト・コンタクトを果たし、ホモ・アストロルムとして銀河文明の一員となった、千年後、一万年後の未来を垣間見た。
この旅で僕が最も伝えたかったことは何だったか、読者の皆さんにはすでにおわかりだろう。
イマジネーションの力だ。
宇宙開発のみならず、あらゆる科学技術は、ただ方程式を解いたり、望遠鏡や顕微鏡を覗いたり、図面を引いたり、プログラムを書けば前に進むものではない。それは例えるなら車の部品のようなものだ。タイヤやエンジンが勝手にどこかに走るのではない。運転手の南へ走るという意志が車を実際に南へと走らせる。その意志がイマジネーションだ。
もしかしたら現代は、人々がイマジネーションを働かせる余裕に乏しい時代かもしれない。テレビやインターネットやスマホが片時も休むことなく情報を吐き出す。自分から頭を働かせなくとも、生活空間はほんの小さな隙間すら情報で埋め尽くされる。旅先の静かな夜や、待ち合わせに遅れた恋人を待つ甘い時間さえ、スマホは余念無く我々の心を情報の鎖で縛り、イマジネーションを働かせる自由を奪う。
もし今度、晴れた夜に外を歩く機会があったら、あるいは仕事帰りにバスを逃してバス停で待つ時間があったら、スマホをポケットにしまい、夜空を見上げて欲しい。きっとそこに輝いているはずだ。大昔から人のイマジネーションの源となり続けた、淡くまたたく星屑が。毎日形を変える銀色の月が。星々の世界に遊ぶ惑星たちが。運が良ければ流れ星が走るかもしれない。人工衛星や国際宇宙ステーションも見えるかもしれない。
想像してみよう。その美しい星空に、淡い天の川の流れの中に、一千億の世界があることを。
想像してみよう。その多くの世界には、雲が浮かび、雨が降り、川が流れ海に注いでいることを。
想像してみよう。その世界に生える不思議な形の植物や地を闊歩する異形の獣のことを。
想像してみよう。その世界に生まれた好奇心とイマジネーション溢れる知性を。
彼らはどんな言葉を喋っているのだろうか。
彼らはどんな知識を持っているのだろうか。
彼らはどんな哲学を持っているのだろうか。
彼らはどんな歌を歌っているのだろうか。
彼らは何を美しいと思い、何を愛おしいと感じるのだろうか。
そして想像してみよう。彼らの世界の夜空に広がる満天の星を。その無数の星屑のどこかに、太陽系がある。
想像してみよう、彼らが我々と同じようにその夜空を見上げ、想像に耽っている姿を。
想像してみよう。彼らが何を想像しているかを。
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