私たちは知識をあまりにも性急に欲する
これらの問いは見たところ重要だが、次の二つの理由によって十分に注意して扱う必要がある。一方で人々は知識をあまりにも性急に欲するので、知識それ自体についての反省をおろそかにする傾向がある。私たちは、知識とは何かを問う前に知識を求め、何を知りうるかを問う前に知識を増やそうとする。 他方でいったん知識とは何か、知るとはどういうことかを問い始めると、後で見る比較的簡単な推論によって、私たちは何も知ることができないという否定的な結論に行き当たる。哲学的懐疑論と呼ばれるこの罠は強力で取り扱いが難しい。私はいったい何を知りうるだろうかという問いに対して、何も知ることができないと答えることは驚くほど容易であり、いったんそのように答えてしまうと、そこから逃れることは意外なほどに難しい。そこで格闘するうち人々は疲れ、腹が減り、生活が苦しくなり、問うことをやめてしまう。 外界が存在すること、自分が存在すること、意識が存在することを疑う人ですら、生活のために知識を必要とする。 私たちは知識をあまりにも性急に欲するので、知識とは何かを問う前に知識を求め、何を知りうるかを問う前に知識を増やそうとする 知識とは何かを問い始めると、私たちは何も知ることができないという否定的な結論に行き当たる。そこへたどり着くのは驚くほど容易で、そこから逃れるのは意外なほどに難しい