共同生活における「各自がひとり分をしっかりこなせば全体がうまくいくはず」という思い込み
世の中を見渡すと、夫の視点、あるいは妻の視点で書かれた「うまくいっていない」「つらい」といった家庭にまつわる文章をいくらでも見つけることができる。感情的な罵詈雑言もあれば、建設的に状況を改善したいもののどうすればいいかわからないといったものもあり、多種多様である。
そんな中でも、いくらか類型を感じることがあって、自分の実体験も交えつつ、そこにはある種の思い込みが存在するのではないかと仮説を持つに至った。その思い込みというのが、タイトルにもある「各自がひとり分をしっかりこなせば全体がうまくいくはず」というものだ。
よく見かける、どちらか一方の視点で語られる主張には「自分はこれくらいやっている」「自分は手を抜いていない、サボっていない」「だから、自分は悪くないはずだ」といった成分が含まれることが多い。きっと、誰かに読んでほしくて聞いてほしくて書いているのだから、それも自然なことだろう。かくいう自分も、家庭において衝突があったときは「自分はこういう考えでこう行動した、うしろめたさもないし、非難されるようなことはないと思う」と主張する機会が何度もあった。 さて、夫婦ふたりで生活していて、夫と妻の「悪い」「悪くない」はぜんぶで 4 パターンしかない。このうち「どちらも悪くないパターン」というのが、けっこう見落とされがちだと感じる。
「もっと家事をやってほしい、私はこれくらいやっている」というのは「自分は悪くない・相手が悪い」というパターン認識から吐き出される台詞であろう。自分がこれだけやっているんだから、相手もそれくらいやってくれればうまくいくはずだ、という無言の前提がそこにはあると思う。だけれど、はたして本当にそうなのだろうか。
単純化のため、ひとりが余裕をもってこなせるタスクの量を「100 / 週」としよう。平常時に、その夫婦が過ごす家庭に毎週 200 の家事等のタスクが発生する場合、ふたりで協力すればたしかに余裕をもってこなせそうだ。
もし、毎週 300 のタスクが発生するとしたらどうか。お互いがちょっと気合いを入れてがんばる程度として 120 のタスクをこなしたとしても、ふたり分の合計で 240 にしかならない。そうすると、家が散らかるとか、ゴミの日にゴミを出し損ねるとか、洗濯物が貯まるとか、消耗品の補充が遅れるとか、そういった望ましくない状態になる。
このとき、自分の 120 のがんばりを正当化し、きっと相手に問題があるだろうと仮定して非難したとしても、問題はまったく解決しない。ここで問題を解決に向かわせるアクションは「タスクの総量を減らす」か「自分たち以外の手を借りるか」のどちらかだろう。自分か相手かのどちらかが悪いはずだ、という不幸な二択から解放されなければ真の問題と対峙できない。
自分の正当性を守ることはそれはそれで大事なことだと思うけれど、それと同じように、相手の正当性を守ることも極めて大事なことだ。実のところ誰も悪い人はいないのにお互いに相手が悪いと思っているなんて悲しすぎるし、誰もが無理してがんばらなくていいように、問題を見極められるようになっていけばいいな、と願う。