何千とか何万とかの読者はね、人間じゃないんだ、数字ですよ。向こうだってこっちを人間だなんて思ってない。売文機だと思ってる。そんなもんいちいち相手してやる必要ない
何千とか何万とかの読者はね、人間じゃないんだ、数字ですよ。向こうだってこっちを人間だなんて思ってない。売文機だと思ってる。そんなもんいちいち相手してやる必要ない。see/pass you again 自分は、書いている人がどういう人かというのは全然お構いなく、その文章を読んでいる(書いている人が極悪非道であるかどうかとか、その人が好きか嫌いかとか全然お構いなく)。
それどころか、その文章の内容がどうかというのは全然お構いなく(その文章が正しいか間違っているかとか、面白いか面白くないかとか全然お構いなく)、その文章の中にあるセンテンスを切り出している。 そういう意味では「書いている人を人間だなんて思っていない」みたいなものかな、とも思う。
でもまたその一方で、同じ文章やセンテンスや写真が、置かれている場所、並んでいる順番で、出会った日時で、全然違う意味を帯びることも知っている(つまり同じ文章やセンテンスや写真が、いつ、誰によってもたらされているかによって、全然違う意味を帯びることを)。
そういう意味では、情報を表示しているディスプレイのその先には、必ず誰かがいるのだ、とも思っている。その誰か、というのは不特定多数の誰かではなくて、紛れもなくある特定の実体としての誰か。会ったことも、話したこともないけども、間違いなく存在する誰か。