インターネットの古典
インターネットの古典については考えることがあって、話を端折ると、 taizooo.icon
「インターネットの原理」は古びない
なぜかというと、
インターネットの社会化と社会のインターネット化
インターネットの社会化: インターネットが社会の原理に寄る方向
社会のインターネット化: 社会がインターネットの原理に寄る方向
という側面があって、
「インターネットの原理」の素の部分というのはかなりプリミティブで、これはインターネットが始まった頃から不変的、普遍的なものだったりする
なにゆえプリミティブなのかというと、それはインターネットの構造やテクノロジーに依存しているから ということで、「インターネットの原理」に近い論説(インターネットの古典)は古びないのではないか? というものです
気をつけたいのは「インターネットの原理」にはテクノロジーや意識が未熟だったのでそれが原理として捉えられた部分があって、社会の原理によって書き換えられることがあるということです インターネットの社会化によって打ち負かされる部分
セキュリティの正義によって greasemonkey が死んだみたいな
ローレンス・レッシグ CODE
もう一つ気をつけたいのは、社会がインターネットの原理によって書き換えられている部分は確実にあるということです AI とか技術的特異点とかそういうバズワードじゃなくて 人間が変わった、ということ
人間が変わった?
人間は変わったんですかね?意味のない思考実験かもしれないですけど、この情報化というシフトがあと50年遅かったとしたらどんな2019年になっていたんでしょうjgs.icon
産業革命の時なんかにもこういったドラスティックな変化はあったのだろうかjgs.icon
脳の可塑性とかいろんな例え話があるんですけど、ちょっとズルをすると、「あなたはこの10年間どのように変化しましたか。そしてその変化に占めるインターネットの影響はどの程度ですか」という問いが立てられます taizooo.icon
質問に質問で返すのはルール違反ですね :-p
インターネットがなかった今を考えることができない程度には影響が...jgs.icon
過去二世紀の間に、変化のペースがあまりに速くなった結果、社会秩序はダイナミックで順応可能な性質を獲得した。今や社会秩序は、たえず流動的な状態で存在する。近代革命と言えば、私たちは一七八九年のフランス革命、あるいは一八四八年革命〔訳註フランスの二月革命を皮切りに、オーストリアやプロイセンなどヨーロッパ各地で相次いだ、君主制国家に対する民衆の革命運動〕、一九一七年のロシア革命などを思い浮かべることが多い。だがじつのところ、最近は毎年のように革命的な出来事が続いている。今日では三〇歳の人が一〇代の若者たちに、「私が若かったときには、世の中はまるで違っていたんだが」などと言うことができる。もっとも、それが本当の話でも、信じてもらえないかもしれないが。たとえば、インターネットが広く利用されるようになったのは、一九九〇年代初頭、わずか二〇年ほど前にすぎない。だが今では、インターネットのない世界など考えられない。 人間が暮らす社会のありさまがすごい勢いで変わっているから、その中で自分たちが変わったか・変わっていないかを見極めるのはむつかしいように思う june29.icon
ガラケーでメール送り合ってた頃とか太古の昔感あるけど、十数年前という...jgs.icon