2025-08-01
恐る恐る分解清掃したら治った。経過を見る
絵が好きというのはあるんだけど、自分が絵を描いていてつらくなってしまったのは、なんでなのかを考えたい
一枚絵に対する違和感
コストに評価が常に見合っていない
消費者目線だと、絵単体で評価することはあまりない
自分は1枚絵にお金を払ったことがない
テクノロジーは恐れるものではない
機械が描いても絵を見るのは人間だから、この2つが完全に分離することはありえない
ルネッサンスの時代には鉛筆すらなかった
鉛筆だって水彩絵の具だってそれ以前の画材に比べればはるかに経済的
写真と何が違うのか
答えが出ない問いを無視するのではなくギリギリ端まで答えを出していきたい
日常生活の中でアンテナを張るために問いを言語化すべきだな、インスタントな答えが得られない問いへの耐性がないのか、疑問を押しやってしまいがちだった
というかこのように日常生活をテーマを持って生活すること自体、生活を豊かにしてくれるもの
なぜ美術館に行くのか
なぜ書店をぶらぶらするのか
呪いからの解放
なぜ生きるのかと問う必要がなくなること
なぜ生きるのかという問いに答えるつもりで生きること
フランクルの言っていることがいまだによくわかっていない
2024年あたりからイラストを描くのが途絶えている
このあたりで、手元に残った技術としての画力が拙いうえに、練習に費やしたサンクコストで傲慢になったり自分を客観的に見れなくなったりということが起こっている気がして、自分のやってきたことが無駄なのではという不安が起こっていた
絵を描くことの良さは、生活を絵を描くつもりで生きることができるところにもあった。他人の作ったものから汲み取れるものが多くなったり、視覚を白と黒のバランスとして読み取ったり、気に入った画面を写真に残したり。他にはデザインや建築に対する興味を持たせてくれたり、技術書という概念を知るきっかけにもなった。
イラスト以外の分野は、興味を持てても底が見えなさすぎて入門に怖気づいていたのが後悔。
今ならちょっとだけやってみるアプローチをとると思う
作り手の気持ちになって考えるという視点を獲得することができた
そのへんのアンテナがしおれているのは描かなくなったことで発生したマイナス
絵に対する執着が薄くなった
画力のみに固執するのは視界が狭い
目的がなきゃ達成度を評価できない
画力の定義を一枚絵の完成度とするならば私はかなり拙い、それなのに人体のデッサンばかりやっていた
絵も手段
創作をするなら、何がしたいのかを明確にしなければならない。それが難しいのなら、経験が足りないのでとりあえずやってみるしかないが、それをするにしても期間と目標を明確にするべきである。
何のためにやっているのかがある程度明確でないと、迷子になってしまう。うろうろするのもよいけど、うろうろするにしても拠点は必要だと思う派(自覚的な逸脱)
自分の能力が低いという痛みを受け入れるためには、能力をアイデンティティにしてはならないように思う
そして能力の低さを受け入れられないならその分野での技術向上は頭打ちになる
自分を愛せるかどうかが関係する?
本当に絵がうまくなりたいなら、自分の絵が下手だというところから始めなければならない
漠然とした下手ではなく、理想状態とどれくらいギャップがあり、いつまでにどれくらいそれを埋めなければならないか、そのためにはこのペースでこれをやらなければならない、というレベルに落とし込めるメタ認知が必要である
けれども自分の絵が下手すぎるということを認識するのがつらい
自分の経験ではダンスに関してもうまく努力をすることに失敗した
下手すぎるというところから始めれば上手くなる見込みはあったのかもしれないが、下手な状態で軌道修正しないままダラダラ続けてしまったので下手だという自己イメージと劣等感だけが残ってトラウマ気味になっていた
ダンスが上手くなるにはプロの踊りと自分の踊りを横に並べて違いをはっきりさせなければいけないし、相当練習しなければならないし、
それだけやっても急にうまくなるわけじゃないので、その期間をどう耐えるかが肝なのだろうけれど
たぶん手を動かすしかない(無心)
漠然とダンス下手だなーとか頭悪いなーというのはそれとはまったく違う。そういう違和感を掴むのは別の意味で重要ではあるが
具体的なギャップが見えるともっと駆り立てられる
自分が始めた時点で周りの人間と差がつきすぎていると結構つらい
学校の勉強も少しのブランクでかなりの差がついてしまうので、劣等感が習熟のノイズになる
逆に先に始めたら先に上手くなるので自分の能力に対して肯定的になるだろうな
ので、早く始めるというのはそれだけで精神的に有利
自分は何を望んでいて、それを実現させるためには今からどれだけのことをやらなければならないのかというのがはっきりすることはそれなりにつらい
自分はつらいと思ってしまうタイプだった(今もそうかもしれない)ので、中高の時はそれを明確にしたうえで素直に努力できる人たちに嫉妬していた
バレエやダンスがとてもうまい人だったり、運動能力が優れていたり、勉強量がすさまじい人だったり
こういう人は稀だけど確実に存在してた
体裁を気にせず、できることを全てやる人
自分はそのタイプではなかったんだけど、そのうえで、できるだけそういう人になりたいなと思っているということを認識しつつある
そう思うべきなのかどうかは別として
自分は下手だと思うとやりたくなくなる
何かを好きになるには、まず得意になるのが手っ取り早いので、ある一点の目標だけに注力して、そこだけでも上達しておきたい
へたくそな状態が長引くとやる気をなくすので一気に1段階目のハードルを越えるのが望ましいと最近は思うようになった
一段階目のハードルを越えられるかどうかはリソースを費やすかどうかの問題であるはず(でなければ、最初のハードルとはいえない)
無力感を打破するためには実際に成功しなければならない