これは水です。
逆方向に泳ぐ年上のサカナに会いました。すれ違い様、年上のサカナはこう言いました。「おはよう少年たち。今日の水はどうかね。」2匹のサカナは特に気にもとめず、しばらく泳いでから、顔を見合わせて言いました。「てか水って何?」
いわゆるリベラルアーツ的な分析をするのは簡単です。「一つの体験が、二人の人間にとって全く異なる意味を持ち、それは二人が、同じ体験にたいして、全く違った信念や観点から、意味を抽出しているから」だとでも言えばいいでしょう。我々は信念の多様性を是とするべきなので、この分析には、どちらの男が正しく、どちらの男が間違っているといった話は出てきません。それは別にいいのですが、一つ問題なのは、この分析には、彼らの異なる信念がどこからきているのかという考察が欠如していることです。 自身の頭の中の独白に催眠されることなく、周囲に注意を払い続けるというのは非常に難しいことです。大学を卒業して20年が経った今、リベラルアーツ教育の肝である「自分の頭で考えられること」というのは、「自分の頭で考えられるということは、何について考えるか、ある程度自分でコントロールできる術を学ぶこと」を端折ったものだ、とようやっとわかってきました。つまり、研ぎすました意識を持ち、自分が考えるべき対象を選び、自分の経験から意識的に意味を抽出できるようになること。これができないと人生はツラいものがあります。「意識は優秀な執事ではあるが、最悪な主である」という、これまた陳腐な表現が意図することです。 「どう物事を見るかは自分で選択できる」ということです。これこそが君たちが受けた教育が生み出す自由の意味です。「適応力がある」という表現の意味です。何に意味があって何に意味がないのか自分で意識的に決められること。何を信じるか自分で決められること。