ADHDに関するメモ※
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自分の心の中にだけ留めておこうかと悩んだのだけど、こんなことを考えた自分もいるのだと記録しておきたくて一応書いておく。
やっぱり消すか…という判断は未来の自分に委ねることにする。
自覚のないADHDがしんどい。
いま知る限り私の周りには特定の1人しか思い当たらず、大学や職場の関係ではないことは明言しておく。
そもそも1人の話から仮説的に膨らんだ妄想ということでもある。
まず大体、自分も含めて美大藝大関係者は、その強弱・程度の大小はあれど、何かしらADHDの症状が見られる方が多くいる気がする。
それも良さだし、全然悪口じゃない。
その背景として考えられるのは、美大生・藝大生も、その卒業生も、多くは受験の段階などから作品をつくることや、それを評価されることを通して、自己の特性・癖(「くせ」というより「へき」)・偏り・弱みなどを多かれ少なかれ自覚していることだ。それは例えば「数学が得意/苦手」というような誰でも判断のつく相対的・客体的な能力の評価としてではなく、もっと自己という存在そのものを見つめてこそわかる、絶対的・主体的なプロセスに関わる評価として獲得するものだと思う。だからこそ、自分の不完全さがどうしようもない……というかそもそも、それをどうにかしようとするべきものとして:「短所だ」とは捉えていなくて、その歪みも含めて丸ごと愛でられる感受性を獲得するので、とても愛おしいし豊かだと思う。私が助手になり始めた頃からの学生は特に「ADHD」という言葉の認知がちょうど広がって来ていた頃だったこともあるからか、入学時の時点から他者の歪みにすらかなり寛容になれる人格が形成されていたように感じていた。
ただここでいう彼らは、自分のADHD的な特性を放し飼いにしているわけではなく、それを個性の表現として美しく見せる努力を備えている気がする。その大きな要因になっているのが、受験や大学の授業を通して作品を評価されるという機会を通して、自分の持つ世界観や癖などの特性を他者の目に晒される経験を多く持っていることだと思う。そもそもそれをしないと仕事にならんし。
一方で(ここからは仮説で悪口的)、上記したその「1人」をはじめ、自分の持つ世界観や癖などの特性を他者の目に晒される経験を持って来なかった方々は、仮に自分にADHD的な特性があったとしてもそれを自覚していない。いわば野生のそれは外界と触れずにむやみに肥大化して荒れ狂っており、凡そ「生理的に無理」という事態の原因となっているのではないだろうか。更に厄介なのは、仮にそれを他者に指摘されようものならその評価を「否定だ」と捉え、「攻撃されたものだ」と拡大的に解釈が膨らみ、機嫌が悪くなるようなことすらある。その過敏さも含めて、私は正直「生理的に無理」である。
美大藝大関係者以外はみんなそうだと言っているわけではなく、ほぼ特定の1人に対する「悪口」であり、これは正直彼を否定すらしてるし攻撃だとも思う。だって本当に気持ち悪い……。でも、多分私の彼に対する見方も歪んでいるから、それこそこれは絶対的なものではないので、いつかこの心情は晴れるかもしれない。