80年談話のメモ
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毎日新聞の記事
政治は常に国民全体の利益と福祉を考え、長期的な視点に立った合理的判断を心がけねばなりません。責任の所在が明確ではなく、状況が行き詰まる場合には、成功の可能性が低く、高リスクであっても、勇ましい声、大胆な解決策が受け入れられがちです。(中略)冷静で合理的な判断よりも精神的・情緒的な判断が重視されてしまうことにより、国の進むべき針路を誤った歴史を繰り返してはなりません。
この「精神的・情緒的な判断」に関する言及には
ドキッとした。
アートやデザイン界隈の関係者として、しばしば
アートの精神性・情緒性は説明するものではないといった、信仰的な言説を振るう場面に出会す。
このアートの不可侵性は、ときに
「聖域(サンクチュアリ)」とも揶揄され、
それゆえに、アートを大義に掲げることで
説明を省略しても許されてしまう——といった
風潮をもたらしていると思う。
アートは崇高で賛美されるものかもしれないが
アートにだって人を殺すことはあるわけで、
説明責任を果たさないことで分断は生まれるし
その為に置き去りにされる意見や不安もある。
この我々の営みが、単なる
「勇ましい声、大胆な解決策」として、
議論の余地なく世論に受け入れられ続けることは
私的には全然健全じゃないと思うんだよね。
戦争はひとごとじゃなく、
アートの精神性・情緒性を安易に振り回す我々も
またその加害者になる危険性もあるってことは
忘れずにありたいと思った。
大学として、この説明責任の放棄ともとれる姿勢
を持つことに懸念を感じていた。
仮に、この懸念をボスに伝えたところで
きっと(これも過去の実体験から得た偏見だが)
「そりゃお前の見方・考え方が悪い」や
「藝大のやり方でなきゃ藝大がやる意味がない」
といった、表面的な理屈のみに触れられて
意見や不安の原因を、当人の知識や経験不足に
なすりつけて、懸念の内容には触れない……
まさに説明責任を果たさないかたちで、きっと
強い論調で批判されるのだと、私は怯えている。
#大切にしたい
#なやみごと