ダサさの暴力
今いる立場や状況に甘え、
自分の弱点や負い目に意識的な蓋をして
そうやって、自分は変わりたくないくせに
他者にばかり変化変容を求める方を見かけたとき
多分私は直感的に「ダサい」と感じるようで、
例えば、
他者を評価・批判する割に、自分を客観視できず
安易で軽率な言動を取られる方とか。
ただ、そういった対象を指して
「ダサい」とストレートに伝えること——には
悲しいことに、暴力性や理不尽さ感じてしまう。
それに、じゃああんたはダサくないの?って
訊かれると、全然自分はダサいと思うし……。
それでいつも、湧き起こるその“直感”は胸に秘め
ただ、ダサくない仕事ができるよう精進せねばと
多分私は、そうした価値観の融合と反発によって生まれる熱で駆動してるんだけど、
(それもどうなの)
ダサくない仕事ができるのが先か、
胸の内のキャパが限界を迎えるのが先か。
ちなみに私的には、
変わらないことに固執せず自分の変化にも寛容にむしろ他者との関わりによって起こる自分の変化を楽しむくらいの姿勢がちょうどいいんだけど、
それだと「ダサい」は駆逐できない。