「自己表現」と「クライアントワーク」
いわゆる「しごと」への向き合い方として、「お金をもらっているのだから、自分の納得の行く100%の表現で応えないといけない——」なんてのは、実は違うのではないか。
そもそも表現って、100%自分の思い通りにできることなんて永遠に訪れないものだと思う。
というかそもそも、自分がいま何%のところにいるのかすら見当がつかない。
ただ闇雲に、なんとなく向かうべき方角だけを心得ていて、あるかもわからない「100%」に到達していないことへの
漠然とした焦りと不安と苛立ちを常に抱えながら進んでいるわけで。
周りのオーダーや制約に縛られない純粋な自己表現ですら100%に到達できないことを、そうした縛りのあるクライアントワークで引き出すなんて無理なのである——と、一旦開き直ってみることにした。
(少なくとも若手のうちは?自分の自己表現に投資してくれる人がクライアントでない限り?)
私の認識で「しごと」とは、自分の持てる知識や技能を特定の価値基準を同じくするコミュニティの中で要請に応じて活用し、そのコミュニティやそこに属する人々に恩恵をもたらす利他的な行為——だと考えている(厳密な定義はそのうち探そう)。
つまり、「自分の切り売り」なのだと思う。その時点で自分の持っている知識・技能を時間とお金に換算し、相手の条件に対して可能な範囲で応えること。
他者は自分のそれまでの実績の量や質を元にして、次に頼む仕事の内容や報酬の算段を立てて依頼してくる。
つまり、事前にある程度ゴール(100%のライン)までの距離と到達時間の予測が立てられたもの——なのだが、ここでのゴール・100%とは、自分のそれまでの知識・技能を基準にしたものであり、その意味するところは、先述の自分にとっての真の「100%の表現」ではなく、他者が自分に投影した限界的なイメージなのだろう。
そして、「プロ」として「しごと」に向き合う上では、金銭的な約束の上で、その期待に応える努力の義務が生じる。
ここで打ち返す表現は、他者が自分に抱く限界的なイメージにできる限り近いことが要求されるのだと思う。
その限定的な100%は、自分にとっての真の100%には遠く及ばぬ位置にあるのである。
そういうわけで、クライアントワークで自分の納得の行く真の100%の表現を打ち出すなんてことは、そもそも無理な話なのだと割り切って、納得がいかない悔しさと苛立ちをセットでポートフォリオを作っていかねばならないのだろうな〜と思ったのと、
同時に、真の100%に近づくための自己表現の探求ワークは結果的に全体を引き上げることには直結するから、その研究を続けていくことの重要性も改めて認識できたなぁという感想。
#対概念 #なやみごと