「わかりやすさ」へのモヤり
広告や、バラエティやクイズ番組、
ゲーム、ドラマや漫画、ビジネス本、SNS、YouTube、……
効率的でストレスのない「わかりやすさ」とか
分かりやすい「おもろさ」とか、
個人主義前提の、ユーザーの1人ひとりが消費しやすいコンテンツをいろんな業界が躍起になって、競争的に、世の中に溢れさせてしまったが故の、
演説がうまければ「わかりやすい」「期待が持てる」という表面的な“わかりやすさ”を魅力に感じてしまうような世論が増長し、今回の選挙はその結果なのだと思う。
ある政党が原因とか、一方的な悪者とかではなくて、大きな波(ブーム)の満ち引きとして、今の時代の複雑化しすぎた(本来複雑だったものが繋がりすぎた)世間の情報の処理に耐えきれなくなった国民の憤りや、不安が、その安易な選択に辿り着いたというだけに見える。
わかりやすいことのそれ自体が悪ではないし、負でもない。
わかりづらいことが正しくないし、寧ろ改善すべきだとも思う。
しかし、そもそも完全に100%何か/誰かのことをわかるなんて
不可能だと思うし、分かり合えない前提でそうした他者と
向き合い、違いを認め合い、尊重し合うことに人間の美しさは
宿るのだと思う。
分からないことに対する不安 に耐えきれず、
すぐ分かろうとするだとか、「答え」というありもしない虚像にすがったりだとか、間違えないような方程式や誰かのやり方をあてにするだとか、そういう生き方は、脆く危うく、なにより
心が傷つきやすく、誰かを傷つけやすく、
美しさとも強かさとも程遠いものになるともう。
「デザイン」だって、わかりやすさを求められる。
先のストーリーズにもあげた100円のコーヒーのはなし。
100円のコーヒーの合理性とか、ロジックの組み立て方とか
システムのシンプルさとか、その辺に美しさをを感じる人も
いるとは思うが
駅から20分かけて辿り着く自家焙煎のこだわり店主の
お店の良さに敏感になれる我々の感性は、捨ててはならない
のだと、改めて感じるところ。