「やり方」は先にあるべきか?
「役所のやり方」「大学のやり方」「文化庁のやり方」……
「〇〇のやり方」って大事…なのかもしれないけど、
その「やり方」に縛られて、やりたいことができないってのは本末転倒だよね?
そんなこと言ったら「お前はまだ甘い」とか、まあ自覚はしているが
「社会をわかってない」とか……そんなふうに押さえつけられるのは目に見えているけど
個人的には、「やり方なんて人それぞれだし、時代それぞれだし……」と、思いつつ
一方で、古くから日本社会を支えてきた「やり方」は、組織の中でのある種の攻防の作法というか
つまり、不要な争いを避けるための身を守る構えと技になるものでもあると思うし、
自分のやりたいことを実現するための“効率的”な攻略法なのだろう。
身につけておかねばならぬものだというのも、その重要性も知ってる。
ただ、その「やり方」のせいで、本来やりたいことができないとか、
歪められてしまうといったケースは本当に多くあるのではないか。
「やり方」に合わせられる人が出世して、「やり方」に合わせられない後進の自由を矯正して……
これはもう社会構造が根本的に歪なまま、健全である姿を忘れたまま
自転車操業的に前に進み続けるしかない状況に陥っているとすら言えるのではないか。
今の社会では「やり方」には正解があるけど、「やりたいこと」には正解がなくて
職場ではやたら効率や正しさを求められるから、人々は「やり方」を身につけるばかりで
「やりたいこと」を実現する方法も、声に出す勇気もなくし
「やりたいこと」ばかりやっている子どもは「現実がわかっていない」と、大人の世界と切り離し
あ〜病みそう。一旦やめよう。
#なやみごと