人間っていいな
我々は人間である。
少なくともそう思っている。
人と違うところを感じたり,他人との価値観の違いもままあるのだが,それでも人間という範疇にいることには変わりはない。
「特別な人間」という表現がある。それでも,人間である。
「天才」「鬼才」という表現がある。それらも,人間に対して利用する言葉である。
クリスマスという少し特別なこの日に,人間であるということを,少し真剣に話しておきたい。
普段の生活に大なり小なり文句を言いながらも,人は好き勝手生きている。理性によって行動を律することは出来るかもしれないが,生物としての本能を置き去りにして生きることはできない。
現在の日本ではルールに従うということを強要する反面,個性の尊重であったり,多様性の容認という風潮が強まっている。
単独で見れば素敵なことなのかもしれないが,無理をして崩れたバランスを何とか戻そうとしているようにも見える。多細胞生物は肉体的に不変ではない以上,その社会も不変ではなく,時にバランスを崩すことがあることも当然である。
では,バランスが取れた状態とはそもそも何なのであろうか。
限りなく調和のとれた世界というものを見たことがあるだろうか。「平和」という言葉を使う全ての人々が,平和を体験したことがあるのだろうか。ごく限られた範囲においては平和は存在するかもしれない。しかし世界全体での平和は実現していない。
世界は非常に曖昧で歪である。では,良いとは何か。正しいとは何か。愛とは何か。
人間はいまだその答えに辿りつけずにいる。
そんな人間が,それでもその「言葉」を口にするのはなぜだろうか。求めてしまうのはなぜだろうか。プラトンは「イデア」の存在を説いた。だが,言葉さえなければこのようなことに振り回されずに生きることができたはずである。
言葉を用いることで,人間は限りない恩恵を受けると同時に,言葉に制約され,時に振り回される。
「大人になる」ということは,周りの大人と「共通の言葉を使うこと」である。一つの言葉に対して周りと同じように認識することが大人としての一歩とみなされる。
「童(わらべ)のときは 語ることも童のごとく 思うことも童のごとく 論ずることも童のごとくなりしが 人となりては童のことを捨てたり」『コリントの信徒への手紙 一』13章11
「人間」とは「人の『間』」である。単独の生命体としてではなく,他社との関連があって初めて人間だと,意味づけられているがために,共通の言葉を,思考の方向性を求められる。
言葉を非常に大切にする領域に,学問という分野が存在する。学問を発展させるのは難しいことを難しく論じたいのではない。原理としては難しいことであったとしても,それを論じるために共通認識としての難しい専門用語があったとしても,学問の目的の一つはシンプルに一般化して世の中を向上させることである。なのに,世の中は難しいことで溢れている。学問と実社会の乖離が叫ばれる。世知辛いものである。
ところで,我々は何者だろうか。
専門学校は研究機関ではない。ひたすらに技術に触れ,能力を向上させる場である。
だが,それだけでは物足りないと私は考えている。
皆は探求を続けているだろうか。探求という言葉はお堅いが,要は世界への好奇心を持っていますか?ということだ。
私は毎日,人とは何かを考えている。11歳から常に頭から離れない私の唯一の学術テーマのようなものである。
皆にとって「人間」とは何だろうか。自分を人間と思っているだろうか。自分が人間と思う根拠を正しく人に伝えられるだろうか。残念ながら私には未だ「人間であることとは何か」を明確に表現することができない。
だからだろうか。私にとっては自分自身が最大の謎である。限りなく不思議で不可解な生き物が自分自身なのである。幸せなことだ。PCがなくても,スマホがなくても,辞書がなくても自分を探求することができる。
体はどう動く?視界の範囲は?感覚器官の反応は?何が心地よくて何が嫌?太陽の光をなぜ暖かいと感じる?真っ暗な部屋で急に電気をつけたときに,まぶしいのことを辛いと思う理由は?なぜ指は片手に5本なんだ?そもそも,なぜ特に考えずに色々なことができるんだ?なぜ声が出せる?どうやって空気を振動させている?爪が伸びるのはなぜ?髪の毛を切る理由は?なぜ人間には体毛があるのか。しかも一部だけ。髭の存在理由がわからん。耳たぶの形が不思議すぎる,どういう理屈でこんな形に進化したんだ。心とはどこにある。体の一部がなくなっても自分なのか?そもそも自分の手と思っているものは本当に自分の手なのか?自分が動かしていると思っている体が,自分の意思に対して誰かが操作しているわけではないという証拠は見つけることができるのか?そもそも,自分とは何だ?
改めて文字にすると飽きもせず馬鹿みたいなことを考え続けているものである。学生に狂っていると言われるのも少しわかる。でも,そんな馬鹿みたいな人間から出てきたアイデアが時には採用されたり,共感を得たりすることがあるから世の中不思議なものである。
子供のシンプルな質問には案外答えにくい。余計なことを考えずに質問するからだと思う。シンプルゆえに時に核心を突く。大人になるにつれて,私たちは言葉を知り,「分かった風」になる。ソクラテス関連で「無知の知」という言葉があるが,分かったつもり,は面白くない。
「常識を知らない」は大人としては恥ずかしいことかもしれないが,知ったうえで,「分からない」は使っていい言葉だと思っている。私も良く使う。
世の中分からないことだらけだ。分からないことが多いということは,それだけ介入できる余地があるということだ。新人類が発生してから20万年も経過するというのに,未だに世界は不思議だらけで本当に助かっている。一生飽きずに楽しむことができる。僕らの「分からない」から生まれた何かが,世の中を大きく変える余地がある。なんと幸運なことだろうか。
退屈と惰性は僕らの敵だ。世の中こんなもんだろ,と思ってしまえば,そこ止まりだ。「なぜ?」を忘れないでいて欲しい。たとえ,生まれたときからそうであったとしても,だ。
技術と知識は鍛えれば伸ばしやすい。人間性に依存する部分は鍛えることができるか甚だ疑問である。人がなかなか本質的に変わることができないというのは良く言われる話である。私は煙草が辞められない。
でもそれは,君たちは生まれてきた時点で唯一無二の存在であるということでもある。君たちの持つ欲求と本能は,ただ生まれてきただけで他人とは違うという奇跡的な状態を保っている。これを生かさない手はないだろう。
個性は推進力だ。何としてでも解消したいと思う「自分なりのなぜ?」に挑むことはとても意義があることだ。変態と言われることもあっていい。人間なんて,大なり小なり変態だ。
そして,君たちという素晴らしい原石を磨くのは他人ではない。自分自身である。世の中の普通を突き崩すのは,未来を拓く力は常に個の意思だ。意思を表現しなければ世界は何も動かない。仲間も集まらない。
磨くためには負荷がいる。多くの場合,ぬるま湯では光らない。
勉強に車輪の再発明はとてもいいと思うが,それだけではスケッチと同じである。風景を紙に再現することのと同じで,それは芸術でも独創性でもない。その先の自分の世界を作る,世の中にないものを作り上げるというときに,君自身という独自性というプラスαが意味を持つ。
私はプログラムを自身の世界を表現するツールだと思っている。自身を表現するための道具だと捉えている。この分野に限らず必要なのは意志の力である。現状の自分がなんでもない存在だったとしても,こう在りたい,こうしたいという意思の根源は信ずるに値するものだ。
改めて伝えておきたい。先の世界に進む事を目的とした場合,この世界に正解を教えてくれる人物はいない。自身の力で辿り着くしかない。自分自身を信じることができることも重要な力である。
というわけで,最後に一つ。
自分の世界を表現するときに,ユーザーとなる「人間」という存在を知る努力は必ず必要になってくる。「人間とは何か」について少しずつでも自分の哲学を作っていってほしい。