臨床推論
clinical reasoning
臨床は推論の連続であり,我々はいつもわからないことだらけの中で仕事をしている.臨床では「わかった」と思った先に必ず落とし穴が待っている.落とし穴に落ちないのは,この先に何があるかわからないという臆病風のおかげであって,その臆病風が吹かなくなった途端に落とし穴に落ちる.自分のやっているのはあくまで推論に過ぎない.その緊張を切らずにいて初めて患者さんの笑顔が見られる.そういう文化は臨床の空気「だったはずだ」
私が医学部に入る前から,臨床が推論の連続であることを否定するかのような教育が行われてきたことも事実である.それは,「医学は時代とともに発展し,わからないことがどんどんわかるわかるようになる」「新しい薬,新しい検査は全て古い薬,古い検査よりも,あらゆる点において優れている」といった,根拠無き信仰である.遺伝子診断や高度な画像診断といった「最新医療」のおかげで,正解が手軽に得られるようになった。そんな幻覚妄想状態が,素人衆の間だけでぐるぐる回って感染していたものが,ついには医者にも感染するようになった そういうことではないのか?
このような信仰の下,最終診断が膨大な検査データとともに提示され,retrospectiveに,つまり後出しじゃんけんで,すべて最初から診断がわかっていたように臨床が論じられる.そうして,最終診断に行き着くまでに生まれた膨大な数の迷い,悩み,疑問は全て忘却の彼方へ押しやられる.臨床は推論の連続であるという史実が消去され,どんなありきたりの症状を示す患者が来ても,たちどころに特異的な免疫検査によって診断を絞り込み,MRIによって診察では決してわからない臓器病変も検出するような,おとぎの国の病院が,患者と医師の両者の心の中に生まれる.
こうしていつ如何なる時でもそ,全ての検査データが即座に得られる環境でなければ診断ができないとの錯覚が醸成され,,いやしくも病院と名乗るのであればすべからくMRIが24時間撮影できる体制を整えるべきであるという思考停止が感染症のように広がった.患者ではなく,検査データや画像が答えを教えてくれるという幻覚妄想状態に一部の医者が陥ったのは,このような機序によってである.