問題解決の市場性問題
たとえばコーチやコンサルは問題解決に報酬が支払われる。
つまり取引可能な問題が解決される。
取引できない問題は解決されない。
取引できない問題
秘匿される問題
すり替えられた問題
合意できない問題
問題が解決された時に「ほっ」とするのは誰か。気が楽になるのは誰か。その人が問題を抱えている。しかし、組織運営といった社会的な問題である場合、その人Aは「自分の問題である」と認識していることは少ない。「あの人が問題を抱えている」と相手Bの問題と認識していることが多い。
この場合、他の人Bの問題に対処することでコーチは報酬をもらえるかもしれないが、きっかけである当人Aの問題を解決していないため、繰り返され続ける可能性が高い。
そして、この不完全な解決には中毒性がある。当人Aは解決ができたと認識している。何度も現れては、対症療法のように解決する。これが正しく問題解決できていると認識する。ループする問題のやっかいなところは、この報酬があることによって、問題認識が事実上不可能になることだ。
同じ問題解決をしつづけることで自分の有能性を発揮できると考えている。
同時に、組織の問題という時、自分は被害者であるという立場を得られる。
この構造を示すシグナルは、何度も類似する問題が現れることだ。何度も同じ問題が現れる場合は問題解決を仕切れていない、問題解決しているのではなく、問題発生を促していることすらある。無意識のマッチポンプである。これを問題共生の罠と呼ぼう。
不登校という言葉がある。投降していない生徒が問題だという。不登校という言葉には、登校こそが正常なあり方であり、登校していない生徒は間違っているという前提がある。しかし学校に登校していない生徒は、家や別の場所に登校しているのかもしれない。学校でしか学べないわけではない。ほかの生き方はある。しかし不登校という言葉によって解決の選択肢があたかも一つしかないように見せることができる。不登校に憤り、登校することに「ほっ」とするのは誰か。生徒ではなく、報酬を得る者である。こうして不登校の問題解決者は自分の仕事を得ることができる。経験や事例が増えるほど、自分の立場は揺るぎないものとなる。「不登校児の元気な様子を見ると、私は不安になる。問題を本当に解決しているのだろうか。 私こそが問題を生み出しているのではないか?」
危険なのは、プロダクトという存在は常に問題共生の罠に片脚を突っ込んでいることである。問題が無ければプロダクトはいらない。だから、プロダクトが存在するためには問題が存在しなければならない。こうして世の中から問題を解決するためにプロダクトをつくったのに、いつのまにかプロダクトの存在のために問題を生み出しつづけることになってしまう。
もちろん何度も解決する必要のある問題もある。私たちはお腹が空く。だから一日三回の食事をする。お腹が減る問題を毎日3回解決しつづけている。これは少なくとも現代では解決しきることは難しい。
しかし、今自分達が取り組んでいる、問題は本当に繰り返されるべき問題なのだろうか?
さて最初の問題を覚えるAと相手Bの話に戻ろう。当人Aが問題を自分のものだと認めて、完全に解決することはどれだけ本人の選択肢になりえるだろうか。企業では優秀さといった能力によって立場が与えられることが多い。これは公式、非公式は問わない。役職が付いていなくても「あの人の言うことは聞いておこう。この人のいうことは参考程度に留めておいてかまわない」という形で社会的な序列が作られる。
自分の能力を証明することで、社会的な序列を上がってきた人にとって、問題を抱えているのは自分であると認めることは非常に難しい。
「あの人達には興味をもってもらいたい。もっと興味を、もっと興味を」
これは「興味を持っていない彼らが問題なのだ」とほのめかしていないか。言われている側は「興味をもっていない私たちが問題なのか?」と罪悪感を抱くことになる。特に気にしていなかったけど、罪悪感を覚えるようになったから取り組もうとするかもしれない。
しかし、解決されることで最も利益を得るのは誰なのか。「興味を持つべきだ」と主張する側なのではないか。
サブスク解除することを、見過ごしてほしい・やりすごしてほしい
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