動力
電気は私たちをいついかなる状況下においても快適な光の下で働くことを可能にした。
動力の歴史
石炭
ガソリン
エネルギーの関係
電気とモーター
火と蒸気エンジン
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畜力
この変革を牽引したのは、畜力を利用する犂の導入と三圃農法の確立である(34)。犂は人間の労働を助け農業を効率化する補完技術だった。大型で重い犂を動物に引かせる犂耕を行えば、ローマ時代には開墾できなかった広大な土地を農業用地として活用できる。しかも犂耕は、耕地面積の拡大に寄与するだけでなく、生産性も大幅に押し上げた。中世史の専門家であるリン・ホワイトが述べたとおり、犂は「人間のエネルギーと時間を動物が肩代わりする農業機械」だったのである(35)。だが多くの発明がそうであるように、犂も新たな課題を持ち込む。それは、犂を引くには多くの家畜が必要になることだった(36)。農耕の畜力依存度が高まれば、家畜の飼料に適した安価な作物を確保する方法を見つけなければならない。その解決策の一つが、三圃農法だった。冬穀─夏穀─休閑保水を順次繰り返す三年単位の輪作で、この中に飼料作物を組み込んで家畜を養いつつ、地力を維持する。従来の二圃農法に比べ、生産性は五〇%伸びたと推定される(37)。加えて、カラスムギなど馬の飼料にとくに適した作物の栽培が強化されたことも、馬の活用に必要な余剰飼料の質的・量的な改善につながった。中世の終わり頃には、三圃農法の導入と農耕馬の活用の間に密接な相関関係が表れるようになる(38)。
補助的な馬具の開発も、中世における馬の活用に大いに役立った。たとえば蹄鉄の発明で、馬を商用輸送に幅広く活用できるようになったほか、軟弱な地盤でも馬を農耕に使えるようになった。あぶみも重要な発明である。あぶみは主に軍用馬のために開発されたのだが、それ以外の場面でも乗り手の安定と快適性の向上に大きく寄与した。とは言え生産性の向上に最も効果的だったのは、肩引法(頸帯式)による引き具の発明である。この発明の重要性を指摘したのはフランスの騎兵隊長だったリシャール・ルフェーブル・デ・ノエットである。古代と中世の引き具を比較し、古代の胴引法(腹帯式)では馬の呼吸を圧迫するため、馬力の八〇%が失われていたという(39)。
こうした技術の進歩の重要性は、どれほど強調してもしすぎることはなかろう。なにしろ一一世紀のイギリスでは、エネルギーの七〇%を動物に依存していたのである。残りは水力だった。馬と牛は併用されていたため、それぞれが生産性におよぼした影響ははっきりしない。ただ、馬に切り替えた地域では生産性が大幅に向上したと言ってもよさそうだ(40)。現代に実験をしたところ、馬と牛では引く力はほぼ同じだが、馬のほうがずっと速いため、一秒あたりの仕事量は五〇%多く、一日につき二時間多く働けることがわかった。輸送における効率改善にも馬と馬具は大きく寄与し、陸上輸送と貿易量を大幅に増やして、市場の拡大と生産性の向上に起因するスミス的成長の実現を促した。中世の引き具と蹄鉄を装着した馬のおかげで、一三世紀の穀物価格は輸送距離一〇〇マイル(一六〇キロ)あたり三〇%の割増しにとどまったと推定される。これは、ローマ時代の三分の一以下である(41)。
水力
畜力に代わる風力と水力の利用は、とくに七世紀から一〇世紀にかけて大幅に進んだ。大型で効率のよい水車がヨーロッパ全土に普及し、さまざまな産業で活用されるようになる。ウィリアム征服王(在位一〇六六─八七年)の命令で行われた世界初の国勢調査・土地測量の報告書「ドゥームズデイ・ブック」(一〇八六年)には、イギリスの三〇〇〇の市町村に五六二四の水車小屋があったとの記述がある。一〇〇世帯につき二つの水車小屋があった計算だ(42)。水車は、毛織物の縮絨、醸造、製材、ふいご、麻紡績、刃物類の研磨などの動力源として活用された。水車の平均的な出力がどの程度だったかはわかっていないが、長い間広く使われていたことからして、その経済的重要性はあきらかだと言えよう。何と言っても、産業革命期を通じてイギリスの主要エネルギー源は水力だったのだ(43)。風力と水力の登場は、古代文明に比して息の長い進歩を可能にした。だから、歴史家の中には中世後期の技術の進歩を「水力と風力による中世の産業革命」と捉える人もいる(44)。
風力
風力は昔から帆船に利用されていたが、風車は古代文明には存在せず、発明されたのはノルマン征服(一〇六六年)の頃になってからである。信頼できる史料に初めて風車が登場するのは一一八五年のことだ。風車が経済的にいかに重要であったかは、その後に巻き起こされた議論をみればわかる。バーチャードという富裕な聖職者が、ある騎士が風車から得た収入について一〇分の一税を払わない、とローマ法王ケレスティヌス三世に直接訴えたのである。騎士のほうは、自分はまったく新しいことに取り組んでいるのだから既存の規則の対象にはならないと主張した。だが法王は一一九五年になるまで、風車からの収入にも一〇分の一税の納税を義務づけた(45)。