創発
エマージェンス
emergence
生成的な現象の特徴
事前の予測が困難
性質を羅列しても全体は明らかにならない
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草が生えない謎の円形地帯が無数に現れる「妖精の輪」現象の発生メカニズムが解明される
キャロルは、ストーリーのある自然主義は、強い還元主義の立場と強い「立ち現れ」主義の中間に位置するとする。
ここで「立ち現れ」という表現について少し述べておくこととしたい。本書で参照している多くの書物において「エマージェンス:emergence」という言葉が使われているとともに、第2部のキーワードの一つとなるからである。エマージェンスは、日本語訳としては「創発」という言葉が当てられていることが多いようだ。これは、相対的にミクロの一見ランダムに見える活動の上にマクロ的な現象や秩序が出現するという意味である。出現したマクロ的な秩序はその基底をなすミクロの活動に関する情報だけでは完全に予想・記述できないものであるとされる。たとえば、我々人間は素粒子から形成されているが、私の性格や行動を記述するためには、単に素粒子の振る舞いに関する原理の解明だけでは不十分である、ということである。そうしたミクロの現象とは区別され、ミクロの現象からは決定論的に予測されることがないという意味において、本書ではエマージェンスを意味するものとして「立ち現れ」という表現を用いることとしたい。
強い還元主義とは、アンダーソンが否定した立場と同じである。つまり、もっともミクロレベルの理論に本質的な意味があり、それさえ解明されれば、つまりはラプラスの悪魔のように、ある瞬間の宇宙内のすべての素粒子の配置が理解され次の瞬間の素粒子の配置が予測可能となるのであれば、よりマクロレベルの振る舞いは雲散霧消し、それ自体を解明する意味は失われる、という立場である。もっともミクロなレベルの理論の解明を知の極限におくという立場である、ということになる。
逆に、強い「立ち現れ」の立場は、マクロ的な秩序自体がミクロの構造を支配することになるので、マクロ的秩序を理解することが、それを構成するミクロの構造理解に不可欠である、という立場である。そういう意味では、この立場は、マクロ現象の解明に知の極限をおいているといえるかもしれない。
「ストーリーのある自然主義」はその中間の立場である。キャロルは、アンダーソン同様、唯一の自然主義的な説明はありそうだ、つまり正しい標準モデルはありそうだとした上で、それとは別に、世界全体のうちの異なる側面を語るにはそれぞれ別の有効な語彙や語り口があるのだとする。さらに進んでキャロルは、知全体の体系は、デカルトが考えたような人間の知に唯一の存在論的な根拠があるのではなく、いくつかの領域ごとにそれを説明するのに適切な語彙や語り口があり、それぞれの領域の理論は独立であるが、それらが重なった場合にはその整合性が求められるような関係にあるとする。
我々はこのような考え方、つまり、自然主義が相対化され、ストーリーやマクロ的な立ち現れが同様に強調される事態と、ディープラーニングを契機とする人工知能への挑戦は考え方において平行しており、それを強化するものだと考える。なぜならば、ディープラーニングは、ミクロのレベルの振る舞いとは切り離されたマクロのレベルにおいて何が重要かを見抜くこと──特徴量を取り出すこと──に、人間が使う記号を介さずに対象とインタラクトすることで成功し、それが知能の重要な要素をなすことを示したからである。
創発行動
つまり一般に複雑系が持つ普遍的特質は、全体はその構成要素の単純な線形和よりも大きく、しかも大幅にちがっていることが多いというものだ。多くの場合、全体は独自の動きを示し、その動きは構成要素それぞれが持つ特質とはほぼ関係がない。さらに、細胞、アリ、ヒトなど、個々の構成要素が行う相互作用を理解できても、結果として生じる全体的な系のふるまいを予測するのは、通常は不可能だ。システムが、個々の構成要素のすべての寄与を寄せ集めただけのものとは大きく異なる特徴を示すという、この集合的な結果は「創発行動」と呼ばれている。これは経済、金融、市場、都市コミュニティ、企業、生命体ですぐに見つけられる特徴だ。