保育器
一八七〇年代後半のある日、ステファヌ・タルニエというパリの産科医が、勤め先の、この都市の貧しい女性のための産科病院、マテルニテ・ド・パリを一日休み、近くのパリ動物園へ行ったときのこと。ぶらぶら歩いてゾウを見たり爬虫類を見たり、パリ植物園の中にある動物園本部の古典的な庭を巡ったりしているうちに、雛の孵卵器の展示に出くわした。温かい孵卵器の中を、孵ったばかりのひよこがよたよたと歩くのを見ているうちに、タルニエの頭にあることが浮かび、まもなく、この動物園の鶏の飼育係だったオディール・マルタンを雇い、人間の新生児用に、似たような機能の装置を作ることにした。一九世紀後期の乳児の死亡率は、今の基準からするとびっくりするほど高く、パリほど進んだ都市も例外ではなかった。生まれた子五人のうち一人は這うようになるまでに死んでしまい、低体重の未熟児となると、見込みはもっと悪くなった。タルニエは、温度調節が乳児の命を保つ決め手だということも、フランスの医学界には統計数字に対する執着がしみついていることも知っていた。そこで、マテルニテ・ド・パリに新生児用の保育器が設置され、か弱い乳児が、木製の箱に収められたお湯の瓶で下から温められるようになると、タルニエはさっそく、五〇〇人の赤ん坊について即席の調査を始めた。結果はパリの医学界に衝撃を与えた。低体重児は生まれてから数週間で六六パーセントが死亡していたのに、タルニエの保育器に入れられると、死亡率は三八パーセントにとどまった。動物園のひよこと同じような扱いをするだけで、未熟児の死亡率が半分近くまで下がったのだ。
タルニエの保育器は、新生児を温めるために用いられた最初の装置というわけではなく、マルタンと一緒に作ったこの装置にしても、その後の何十年かで格段の改良が加えられることになる。けれどもタルニエが示した統計学的分析が、新生児保育器に必要な後押しになった。何年もしないうちに、パリ市議会はパリの産院すべてにこの保育器を設置することを求めた。一八九六年には、アレクサンドル・リオンという商売気もある医師が、ベルリン万博で保育器を――新生児を入れて――展示した。キンダーブルーテンシュタルト、つまり「育児場」と名づけられたリオンの展示は、この万博の隠れたヒットになり、保育器ショーという、二〇世紀にも続く奇怪な伝統も、ここから始まった(アメリカのコニー・アイランド遊園地には、一九四〇年代になるまで、常設の保育器ショーがあった)。現代の保育器には、高濃度酸素治療などの進んだ装置が追加され、第二次大戦後には、アメリカの病院ではあたりまえの医療器具になって、一九五〇年から一九九八年にかけて乳児死亡率が七五パーセント下がるという、立派な成果ももたらされた。保育器はひたすら生まれて間もない命に的を絞るので、公衆衛生にとっての利益――寿命が何年延びるかを尺度とする――の点では、二〇世紀の医療のどの進歩をとっても、保育器にはかなわない。放射線治療、二重バイパス治療も一〇年、二〇年寿命を延ばしてくれるかもしれないが、保育器の場合は、まるごと一生分が延びることになる。
二〇〇四年のインド洋大津波の翌年、インドネシアのメウラボーという町は、いくつかの国際的な支援団体から八台の保育器を受け取った。二〇〇八年の末、MITのティモシー・プレステロという教授が現地の病院を訪れたときには、八台がすべて故障していた。電源サージ〔雷などによる急激な変化で、突発的に機器に規定以上の電圧がかかること〕や熱帯の湿気のせいだったが、英語で書かれた修理マニュアルを現地の職員が読めないという理由もあった。メウラボーの保育器は代表的な例で、途上国に提供された医療技術のうち、九五パーセントが最初の五年以内に故障していることを示す調査結果もある。