モラベックのパラドックス
ルールに従う度合いが高いほど、コンピュータは得意になる
モラベックのパラドックス
もしポランニーのパラドックスが自動化の唯一のハードルなら、残存する雇用の大半はシンボリック・アナリストで占められるはずなのに、なぜこれほど多くの職業がまだ成り立っているのか。第二の理由はロボット工学者ハンス・モラベックの名を冠した「モラベックのパラドックス」で説明される。コンピュータは人間が楽々とこなせる多くの作業を苦手とするが、反対に人間には困難きわまりない多くの作業をこなすことができる。この事実を指摘したのが、モラベックのパラドックスだ。「知能テストやチェッカー(西洋版の囲碁)で大人を負かすといったことは、コンピュータにとってさほどむずかしくはない。だが知覚や運動といったことになると、一歳児のスキルを身につけることさえむずかしく、場合によっては不可能だ(23)」。コンピュータはチェスの世界王者マグヌス・カールセンを楽々と打ち負かせるかもしれないが、対局後に駒を片づけ、正しい場所にきちんとしまうという作業はできない。人間が掃除機を使ったほうが、認知や器用さや機動性の面で、コンピュータ制御の機械よりもまだまだ効率よく動ける。今日のコンピュータは、情報の保存・加工では人間をはるかに上回る能力を発揮するが、木に上ったり、ドアを開けたり、テーブルのコーヒーカップを片づけたり、フットボールをすることはできない。なぜか。人間の無意識の感覚運動力は何百万年もかかって脳内で進化を遂げており、真似をするのはきわめてむずかしいというのが有力な説だ。人間は子どものころから、歩いたり、物を認識して操作したり、複雑な言語を理解できる。こうした四歳児でもマスターできる基本的な能力をコンピュータに習得させるのは、エンジニアリング上、最大のハードルの一つであることがわかっている。
モラベックのパラドックスで自動化がむずかしいスキルの多くは、コンピュータが導入されても価値が上がっていない。これがポランニーのパラドックスとの決定的な違いだ。この二つのパラドックスに起因するエンジニアリング上の問題をなかなか打開できないからこそ、労働市場はこれまでのような流れをたどってきたのである。コンピュータの導入でシンボリック・アナリストは以前よりもゆたかになり、自動化のむずかしい対人サービスの購入に回す所得を増やした。一方、定型職の自動化は、高卒向けの求人が減ることを意味する。このため、生産性の高い自動化された産業から、生産性の低いサービス業(ビルの清掃員、庭師、保育士、受付係など)に労働者が流れる傾向がある(24)。残念ながら、これは大量の労働者が、生産性の上限が低い業界に流れ込み、結果的に賃金面でシンボリック・アナリストに追いつけないことを意味する。たとえそうだとしても、テクノロジーが停滞している職種も賃金は上がると予想する経済学者もいるかもしれない。高い生産性と高い賃金を求めて転職する労働者を引き留めるために、経営者が賃上げを迫られるという説だ。だが、これまで見てきたとおり、高卒以下の男性の賃金は、過去三〇年間、減少が続いている。これは言い換えれば、そうした男性のスキルを活用できる転職先の選択肢が狭まっていることを意味する。オーターとともに、このパターンを最初に指摘したのが、先駆的な著書『新しい分業』を二〇〇四年に発表したマサチューセッツ工科大学(MIT)の経済学者、フランク・レビーとリチャード・マーネインだ。
「コンピュータが経済成長の行方を決める一因となったことを受けて、まったくタイプの異なる二つの仕事の数が増えている。賃金が大きく異なる二つの仕事である。相対的に重要度が増しているのは、ビルの清掃員、カフェテリアの店員、警備員といったワーキングプアの就く仕事だ。だが雇用の伸びが大きいのは、マネージャー、医師、弁護士、エンジニア、教師、専門技術者といった所得分布で上層に位置する職業である。後者の仕事は三つの点が際立っている。給与が高く、幅広いスキルが必要で、大半の人がコンピュータを使って生産性を上げている。『ビルの清掃員が増え、マネージャーが増える』というこの職業構造の空洞化に多大な影響をおよぼしているのが業務のコンピュータ化だ(25)」。
二人の研究はアメリカに注目したものだが、こうした二極化はアメリカだけの現象ではない。図12をみればわかるように、中間層の空洞化は先進国の労働市場に広く見られる特徴だ。こうしたスキル・所得分布の最上位と最下位で雇用が増えるという流れは、大卒者と高卒者の格差を広げる要因となっている。
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