ウラジーミル・プロップ
ウラジーミル・プロップ『民話の形態学』と『昔話の形態学』の写経を見返してた。
『民話の形態学』と『昔話の形態学』は興味深いけれど、興味深いだけに危うい。興味深いだけで役に立たないどころか人の認知能力を奪いやしないか。
呪いだなと思った。これを読み込んだ当時の自分として、アニメといった物語を見ていて「これは出立だ!」といった当てっこゲームはできるようにはなる。クオリティを伴った物語を作れるようになるわけではない。
むしろ観察する努力を失わせてしまう。「これは出立だ!」で止まってしまう。自分の知覚を拠り所にして「このシーンは一体なんなんだ、うーんうーん」と悩む機会を奪ってしまう。
これは旅のガイドのようなものだ。ガイドが流暢すぎれば、ガイドのいうとおり土地を巡ることになる。自分の知覚の代わりにガイドで書かれていることを鵜呑みにしてしまう。
何かの研究や方法を、何かを生み出すものとして見たとき、それは道具として成立しているのかは試金石になるのではないかと思う。道具とは人間の能力を拡大するもので、人がやり遂げようとすること助ける。道具を使うと、早い話が「はやいやすいうまい」になる。
クオリティというヤスリをかけたときに全く歯が立たない見せかけの道具には気をつけなければならない。
という自分の黒歴を反省した自戒。
「で、クオリティは生まれたの? 大ヒットしたの? 」は今後も自分にぶち当てていきたい