フリン効果
環境によって刺激されて適応してきた。
19世紀前後で普及した学校教育によって、前後の人の認識は大きく変わった。
なぜ祖父母世代よりもIQが高いのか
ダニーデンの街は、ニュージーランドの南島から南太平洋に突き出た半島の付け根にある。この半島はキガシラペンギンの生息地として知られ、世界の住宅地では最も急な坂があることも、地元の人たちのひそかな自慢だ。ダニーデンにはニュージーランド最古の大学、オタゴ大学もある。ジェームズ・フリンは同大学の政治学分野の教授であり、思考についての心理学者の考え方を変えた人物でもある。
フリンの研究は1981年に始まった。研究のきっかけとなったのは、第一次世界大戦と第二次世界大戦の兵士のIQスコア(知能指数)について報告した、30年前の論文(注1)だった。その論文によると、第二次大戦の兵士のほうが、第一次大戦の兵士よりもIQスコアが高く、それもかなり上だった。第一次大戦の兵士で、全体のちょうど中間、つまり50パーセンタイルに位置する兵士は、第二次大戦の兵士の中では22パーセンタイル(下から22パーセント)の位置だった。
フリンは、兵士以外でも同じように進歩しているのではないかと考えた。「IQがどこかで伸びているのなら、すべての場所で伸びているのではないかと思った」と、フリンは語った。彼が正しければ、心理学者は目の前にあった非常に大きな変化を見逃してきたことになる。
フリンは他の国々の研究者に、データを提供してほしいと手紙を書いた。そして、1984年のどんよりとした土曜日の朝、大学の郵便箱についに一通の手紙が届いた。それはオランダの研究者からで、そこにはオランダの若者が受けた、何年分ものIQテストの生データが入っていた。
彼らが受けたテストは、「レーヴン漸進的マトリックス検査」と呼ばれるもので、それは複雑さを理解する能力を測るものだった。テストでは抽象的なデザインの一部が欠けている図がいくつも示され、受検者はその欠けた部分を埋めて図を完成させる。このテストは「文化的影響を排除した」テストの典型例とされている。つまり、それまでに学校内外で学んできたことに、テストの成績が影響されないということだ。もし火星人が地球に降り立ったら、彼らがどれだけ賢いか、レーヴンのテストを使って測定できるはずだ(注2)。フリンは送られてきたデータを見てすぐに、オランダの若者が莫大な進歩を遂げていることを発見した。
さらにフリンはテストの説明書からも手掛かりを見つけた。テストは平均スコアが常に100になるよう標準化されていた(受検者の能力は、常に100を中心とした数値で表される)。受検者の正解率が過去に比べて高くなったので、平均が100になるように、IQテストの基準は時々変更されていた。
その後1年の間に、フリンは14カ国からデータを集めた。すべての国で、子どもも大人も、大きく得点を伸ばしていた。フリンによると、「ゆりかごから墓場まで、どの年代で見ても先祖よりも能力が高まっていた(注3)」
フリンの仮説は正しかった。得点の増加はすべての場所で起こっていた。他の学者たちも、それまで一部のデータには遭遇していたが、それが世界的な傾向なのか、誰も調査してこなかった。テストの平均を100にするために、点数のシステムを調整した人たちですら、そのことに思い至らなかった。フリンは言う。「私は部外者だったので驚きを感じたが、心理統計学のトレーニングを受けている人は、ただ受け入れたのではないか」
20世紀において、時代が進むに連れてIQテストの正解数が伸びていくことは、「フリン効果」と名づけられ、今では30カ国以上で立証されている。その伸びは驚異的で、10年ごとに3ポイントだ。長期的に見てみると、たとえば、現在平均的なスコアの成人は、1世紀前なら上位2パーセントに入る。
フリンが1987年にこの発見を発表すると(注4)、認知能力を研究している人々に強烈な衝撃が走った。米心理学会は、このテーマだけに絞った会議を開き、IQテストスコアは本質的に変わらないとする人たちは、フリン効果を否定するためにさまざまな理由を挙げた。たとえば、教育や栄養状態の改善、テストの受検経験などだ。しかし、そのどれもが、異常なスコアの伸長を説明できなかった。実は、一般的な知識や、計算、語彙など、学校や個人で勉強できることに関するスコアは、ほとんど変化していなかった(注5)。ところが、レーヴンのマトリックスのような、公式に教えられることのない抽象的なタスクでは、成績が急上昇していた。
また、二つのものを比べて、どこが似ているかを指摘する「類似性」のテストでも、同様に点数が大幅に伸びた。たとえば、「夕暮れ」と「夜明け」の類似点は何だろうか。現代の若者は、「両方とも一日のうちの時(とき)を示す言葉」だと、すぐに答えられるだろう。加えて、彼らは祖父母の世代よりも、さらに高いレベルの類似性を認識する可能性が高い。つまり、「両方とも昼と夜とを分ける言葉(注6)」ということだ。類似性のテストで平均的なスコアの現代の子どもは、祖父母の世代であれば上位6パーセントに位置する。
エストニアの研究者が全国テストのスコアを使って、児童の言葉の理解度を1930年代と2006年とで比較したところ(注7)、抽象的な言葉に関して、スコアの上昇が見られることがわかった。言葉の抽象度が高いほど、上昇の度合いは高かった。直接的に観察できるモノや現象に関する言葉(「めんどり」「食べる」「病気」など)では、現代の子どもが祖父母を負かすことはなかった。だが、直接に感知できない概念(「法律」「誓い」「市民」など)では、大幅に進歩していた。
1920年代の後半から1930年代の前半までの間に、ソ連の辺境の地域が、普通であれば何世紀もかかるはずの社会・経済的な変化を、急速に進めることを強いられた。それまで、今のウズベキスタンに当たる地域の農民は、食料を得るために小さな畑を耕し、所得を得るために綿花を栽培してきた。また、今日のキルギスタンに当たる山間部の放牧地では、家畜を飼育していた。そこに住む人々は誰も読み書きができず、厳しい宗教的なルールによって、階層的な社会構造に組み込まれていた。こうした暮らしを、社会主義革命が一夜にして破壊した。
ソ連政府は、農地をすべて大型の集団農場にするよう命じ、工業開発を始めた。経済は急速に相互につながり始め、複雑になっていった。農民は生産を始める前に、集団としての労働戦略や計画を立てなければならず、役割を分担し、仕事の評価も求められた。辺境の村々が、遠くの都市部と連絡をとるようになった。
誰も読み書きができない地域で、学校制度が立ち上げられ、大人が音声と文字をマッチさせる方法を習い始めた。村人はそれまでも数字を使っていたが、それは取引時など必要に迫られた時だけだった。今や彼らは、現実的な用途、たとえば動物を数える、食べ物を配るためだけでなく、現実の世界とは切り離された抽象的な概念としての数字を学んでいた。村の女性の一部は依然読み書きができなかったが、学齢前の子どもたちを教えるための短いコースを取った。女性の中には、師範学校に入学を認められ、長期間学習する者もいた。それ以外の人たちには、入学前教育のクラスや、農業の科学や技術についてのクラスが提供された。中等教育や技術専門学校も続けて設けられた。
1931年、この驚異的な変革の中、アレクサンドル・ルリヤ(注10)という聡明な若いロシアの心理学者が、この地域で進められているのは、世界の歴史でも類を見ないこの時だけの「自然実験」だということに気づいた。ルリヤは、村人の仕事が変化すると、その思考も変わるかもしれないという仮説を立てた。
ルリヤが現地に到着した時、最も辺鄙な村々では、まだタイムマシンのような社会変革が進められていなかった。この村々がルリヤの対照群(比較対照実験で、変化を加える実験群と比較するためにつくられた変化を加えないグループ)となった。ルリヤは現地の言葉を学び(注11)、仲間の心理学者も呼んで、茶店や牧草地などのリラックスした環境で、現地の人と交流した。そして、質問をしたり、タスクを与えたりして、村人たちの思考について知ろうとした。
中には、とてもシンプルなタスクもあった。たとえば、さまざまな色のウールやシルクの糸の束を見せて、参加者にこれを表現してもらった。すると、集団農場の農民や農場のリーダー、女子学生などは、簡単に青や赤、黄色などと言い、時には濃い青、明るい黄色などと表現した。一方で、「近代化以前」の辺境の村人は、もっと多様な答え方をした。咲いている綿花、虫歯、たくさんの水、空、ピスタチオ、といった具合だ。
そのあとで、彼らに糸の束のグループ分けを頼んだ。すると、集団農場の農民と、公式の教育を少しでも受けた若者は、たやすく、かつ自然に、糸を色別のグループに分けた。色の名前がわからない場合でもほぼ問題なくグループ分けし、同じ色でも濃いものと明るいものを別々にまとめた。
一方で辺境の農村の人々は、刺繍の仕事をしている人でさえも、そのタスクを拒んだ。彼らは「そんなことはできない」と言ったり、「同じものはないから、一緒にすることはできない」と言ったりした。熱心に頼み込み、小さなグループをたくさんつくってよいと伝えると、何人かが折れて、明らかにでたらめのグループをつくった。色そのものには関係なく、色の鮮やかさでグループ分けする人たちもいた。
幾何学的な図形についても質問した。近代化が進められている人たちほど、「形」という抽象的な概念を把握し、三角形や四角形、円などのグループをつくった。公式な教育を受けていなくても、形の名前を知らなくても、グループ分けができた。
一方の辺境の村人たちは、直線で描かれた四角形と、全く同じ形だが点線で描かれた四角形を見て、似ているとは思わなかった。26歳のアリエバにとっては、直線の四角は明らかに地図であり、点線の四角は時計だった。彼女は疑わしそうに「どうして地図と時計を一緒にできるの?」と言った。24歳のハミドは、黒い円と白い円は一緒にできない、なぜなら一つはコインで、もう一つは月だからだと言い張った。
近代化や集団的な文化によって生まれた変化の中には、このほかにもまるで魔法のようなものがある。ルリヤは、辺境の村人が「エビングハウス錯視」のような錯視を起こさないことにも気づいた。次の図の二つの黒い丸のうち、どちらが大きく見えるだろうか。
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辺境の村人は、「両方同じ」と答えた。それが正解だ。一方で、集団農場の農民や師範学校の女性たちは右を選んだ。他の伝統的な社会でも同様の結果が見られた。科学者たちは、近代化以前の人々は全体的な状況、この場合はさまざまな円同士の関係に、それほど引っ張られることがなく、そのため別の円が存在しても認識が変わらなかったのではないかと考えた。よく言われるたとえを使うと、近代化以前の人たちは木を見て森を見ず(注13)、現代の人々は森を見て木を見ていない、ということになる。
ルリヤの内陸地への旅以来、科学者は同じことを他の文化でも試してきた。
その一つがクペレ族の研究だ。リベリアのクペレ族(注14)は、自給自足で米を栽培して生活している。しかし、1970年代に道路が伸びてきて、クペレ族は都市と結ばれた。類似性のテストをすると、クペレ族の中でも現代の学校に通っている10代の子どもたちは、抽象的なカテゴリーでモノを分類した(「体を温めるためのもの」など)。しかし、伝統的生活をしているクペレ族の10代の分類は、それと比較すると気まぐれだった。全く同じタスクを繰り返すように言われても、組み合わせはよく変わった。現代に触れている10代は、意味のあるテーマでグループ分けをしていたため、あとでグループに何を含めたかを尋ねられても、よく思い出すことができた。このように、現代的なものに近づいていればいるほど、抽象的な思考力は強化され、具体的な経験を思考の基準点にすることは減っていった。