暗黒の啓蒙書ニック・ランド 1856夜2025年10月15日
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https://1000ya.isis.ne.jp/1856.html #松岡正剛 #ニック・ランド
この本は危なかっしい。なにしろ『暗黒の啓蒙書』なのである。啓蒙は原語はエンライトメント(Enlightenment)だから光や黎明をもらすことを言うのだが、この本は暗黒、すなわちダークサイドを啓蒙しようというのだから、危なかっしい。だから危険なものが苦手な諸君は読まないほうがいい。かなり由々しいアポカリプスに挑んでいる。
それにこの本の著者は疾走しまくるのが好きで、やたらに文脈を飛ばしているので、ふつうに読んだのではわかりにくい。わかりにくいだけでなく、文中で異様な仮説がチカチカと挿入されるので、毒がまわってくる。つまり説明をちゃんとしていないのに、異様な仮説が断片的に飛んでくるので、そこが毒の服用や注射になりかねない。危険なのである。
だから以下もそれを承知で読んでいただきたい。ヤバイと思って
補足解説
2021年のある夏の夜、松岡が書斎で真っ黒な本をもちながら「なんかヤバいのでてきた。かなり変わっているよ」と語っていました。それが本書『暗黒の啓蒙書』です。本書以外の関連書もどれも真っ黒な装丁だったので印象深くのこっています。当時は神秘主義に関する書籍を「千夜千冊」で連打していた時期で、松岡の書斎に集まっていた本の中にはかなり怪しげな本もあったのですが、それでもニック・ランドの毒っ気がよほど強かったのでしょう。本文の最後に「ヤバいと思って」だけ書き残しているあたり、松岡の読んだときのナマな実感が伝わってきます。
本書はランドが2012〜2013年にかけてブログで発表した論考「暗黒の啓蒙(The Dark Enlightenment)」が元になっています。「暗黒啓蒙」は近代の啓蒙主義が広めた民主政治・平等思想を真っ向から批判し、資本と技術の暴走を推し進めることで新たな秩序形成を目指そうとする思想です。ランドがそれまで展開してきた「加速主義」をより過激化したものであり、エリート主導による統治やポストヒューマン未来像も示唆するなど、かいつまんだ内容だけでも松岡の言う「この本は危なかっしい」の意味がわかるようです。
ランドの論考は、異様な仮説と熱を帯びた文体とがあいまって、ネット論壇で話題を呼び一気に拡散されます。その後「新反動主義」と呼ばれる過激な政治構想と接続し、「オルタナ右翼」にも影響を与えていくなど、毒が身体を蝕んでいくように世界に浸透していきました。
そのいきさつなどは木澤佐登志さんの『ニック・ランドの新反動主義』(星海社新書)に書かれています。この本は松岡が熟読していたようで大半のページにマーキングがのこされていました。(増補版が今年の11月19日に刊行予定)。
松岡は「加速主義」については「千夜千冊」で言及することが少なかったのですが、千夜の横で連載していた「セイゴオほんほん」で次のように触れていました。
勢いをもちはじめたのは「加速主義」(acceleration)である。今日の資本主義をもっとラディカルに拡張加速するべきだという思潮だ。
これらがはたしてドゥルーズ=ガタリのアンチ・オイディプスの追想なのか、自殺したマーク・フィッシャーの鎮魂なのか、シンギュラリティ仮説のヴァージョンにすぎないのか、まだ見えてはきていない。ぼくは、フレデリック・ジェイムソンの『未来の考古学』(作品社)などが示したSFのディストピア観をもう少し議論したほうがいいと思っているのだが、さあ、どうだか。
「EU離脱・反資本主義・加速主義」 「ほんほん」20 2019年7月16日より
ここにあげられた #フレデリック・ジェイムソン の『未来の考古学』は松岡が「絶対に持っておいたほうがいい」と何人かのスタッフに強く薦めていた本です(ただし絶版中)。
ジェイムソンは「未来は想像不可能である」ことをしっかり認識した上で、むしろ別の社会を望もうとする人々の想像力(=ユートピア的衝動)に目を向けるべきだと訴えています。大きな切り口で議論しがちな加速主義の言説に対し、テクストの断片から人々の想像力を引き出そうとするジェイムソンの思想に、松岡は共感したのかもしれません。
ちなみにジェイムソンは「資本主義の終わりを想像することよりも、世界の終わりを想像することのほうがたやすい」というフレーズでも知られ、批評家マーク・フィッシャーが『資本主義リアリズム』に引用したことで広く流布されました。フィッシャーは、ランドがかつて設立したCCRU(Cybernetic Culture Research Unit)の元メンバーですが、団体を離れた後はジェイムソンと近い思想を共有し、新たなコミュニズムのありかたを模索していたようです。松岡は「ニック・ランドよりマーク・フィッシャーのほうが格好いい」とつぶやいていたものです。
なお「加速主義」に関する記述は角川武蔵野ミュージアム公式HPの連載エッセイ「館長通信」にも残されています。
汎用人工知能(AGI)がいつか人間を越えるのではないかという問題に対する改良派と促進派の議論を紹介しながら、そこからこぼれ落ちる「意味」の多様性についてこんなふうに触れています。
「ふつう」と「ふつう以上」という価値観をつくりあげた文明にヒビが入りつつあるのだろうか。私の編集工学的な観点からすると、「ふつう」と「ふつう以上」以外の、「芭蕉っぽい」とか「ちょっと変わってる」とか「たくさんの意味がまざっている」といった価値観が世の中から排除されつつあることが、むしろ問題だと思われる。文章やアートは「意味」の多様性を許すものなのだ。
館長通信No.77 「神と仏と人工知能」2024/03/01より
フレドリック・ジェイムスン:イエール大学でアウエルバッハの薫陶を受けたフランス文学研究者。著書『未来の考古学』では古今東西のSF小説を分析しユートピア的想像力の役割を提起した。SFのディストピア観をもう少し議論したほうがいいと思っている。
フレデリック・ジェイムソンは準マルスキト
コロナ時代に松岡正剛が選ぶ二十二冊  2020/04/30
社会の社会1・2』 ニクラス ルーマン(法政大学出版局)
『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』ジュディス・バトラー、エルネスト・ラクラウ、スラヴォイ・ジジェク(青土社)
『精神の生態学』グレゴリー・ベイトソン(新思索社)446夜
『知と存在』マイケル・ポランニー(晃洋書房)
『アクシデント 事故と文明』ポール・ヴィリリオ(青土社)
『昨日までの世界 上・下』ジャレド・ダイヤモンド(日経BP)
『銃・病原菌・鉄 上・下』ジャレド・ダイヤモンド(草思社)1361夜 
『ウイルス・プラネット』カール・ジンマー(飛鳥新社) 1737夜 
『免疫の反逆』ドナ・ジャクソン・ナカザワ(ダイヤモンド社)
『免疫複合』エミリー・マーチン(青土社)
『未来の考古学I・II』フレドリック・ジェイムソン(作品社)
『カルチュラル・ターン』フレドリック・ジェイムスン(作品社)
『反脆弱性 上・下』ナシーム・ニコラス・タレブ(ダイヤモンド社)
人新世とは何か』クリストフ・ボヌイユ、ジャン=バティスト・フレソズ(青土社)
『存在の大いなる連鎖』アーサー・O・ラヴジョイ(晶文社) 637夜 
『グーテンベルクからグーグルへ』ピーター・シリングスバーグ(慶應義塾大学出版会)
『ウェットウェア』デニス・ブレイ(早川書房)
『東工大講義 生涯を賭けるテーマをいかに選ぶか』最相葉月(ポプラ社)
危機を管理したり、排除するのではなく、小さな危機を入れておかないと免疫が反逆する。ノイズや異質である非自己(not self)を入れない限り、自己(self)はつくれない。それが免疫というシステム。
日本の社会は平均社会になり、異質を排除してきた。しかし、異質を排除することは差別となり、民主主義的にまずい。平等が重んじられ異質という見方を止めよう、異質を感じないようにしようとしてきたことに大問題がある。
稽古と本番、平時と有事を断絶するのではなく、そのあいだに分け入りながら組み合わせ、組み立てていくこと。自分の中にある非自己を大切にすること。
バイオ・キャピタル ポストゲノム時代の資本主義 1649夜 2017年9月04日
われわれは急激に変化する世界のなかで、いくつもの根底的な問い直しをせざるをえなくなっている。生命、資本、事実、交換、価値の意味がことごとく生命情報科学によって覆われているようになったからだ。
この変化は資本主義システムの特質にも大きな影響を与える。バイオテクノロジーがもたらす作用は既存のどんな資本主義概念でも説明がつかないものになっている。ラジャンはこれを「歴史をもたない資本主義」のスタートだとみなし、そこにフーコーとハラウェイから借りた概念「生-資本」すなわち「バイオキャピタル」が躍り出してきたと捉えた。
1980年10月14日、ジェネンテックが株式上場されたとき、資本主義は決定的に変質したのだ。
ゲノム情報がバイオ産業にもたらす「知識」はアリストテレス的ではない。
アリストテレスの知識はどうであれ、なんらかのテオリア(目的)とプラクシス(行為)とポイエーシス(制作)を伴うもので、そこでさまざまな多様性に分散するのだが、バイオテクノロジーの知識は特定の生命文法を限定するため、世界の疾病の発生と変化の可能性を計算する知識に生まれ変わってしまうのだ。
このような知識のありかたはきわめて特異であって、震えるほどに近未来的である。ミシェル・フーコーが「生-権力」あるいは「生-政治」と呼んだものに近く、そこに、いっさいの知識をめぐる制度プロセスと認識プロセスと言説プロセスが封じこめられる可能性をもっている。
この知識は生命の活動源泉から生まれてきたものでありながら、生命文法として人間や動物の本来を解明するものには、なりそうもない。なぜならこの知識は研究開発が源泉に着手すると同時に、すぐさま資源としてのみ活用されていくからだ。
これまで知の源泉がそのまま富の資源になるなんてことは、神々がいた時代このかた、めったになかったことだ。今度ばかりは、それに近いことがおこっている。ラジャンがバイオテクの知識と技術の一切を「生-資本」だとみなすのは、そこなのである。
多くの知識は変遷的であり、古代や中世とどこかでつながっている。また近代化を蒙ったとしても、その知識の原型や母型が破壊されるということはない。
ところが、バイオキャピタル化された知識は過去とは不一致なのである。かつてリオタールがカナダ政府の要請に応えた覚書『ポストモダンの条件』では、来たるべき情報革命の中でもポストモダンの知は断絶されることなく、それらを包摂するだろうと予想したのだが、バイオキャピタル革命では、それはままならない。
フレデリック・ジェイムソンがリオタールのポストモダン分析を、「ポストモダン主義は新しい社会秩序の文化的な優越性を示していない。それは資本主義のもうひとつの修正と反映にすぎない」と言ったものだが、むしろこの指摘に近いほうへ向かうしかなかったのだ。
ポストモダンの条件をもってしてバイオキャピタル革命の問題を議論できないのだとしら、どうするか。ラジャンは「ポストゲノムの条件」を検討しようと考えたようだ。