人類は世界の悲劇から永遠に逃れられない 2023.10.13
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ハンチントンの最も高名な弟子であるフランシス・フクヤマが米国の著名シンクタンクのランド研究所に入ったのは1979年、ミアシャイマーがハーバード大学に行く1年前のことだった。だが、ふたりは80年代、学界のつながりを通じてお互いをよく知るようになった。米国が冷戦をどのように戦うべきかをめぐって激しい討論もした。ミアシャイマーがリアリストとしての地歩を固めたのはこの頃だった。
リアリズムの伝統は、1930年代にヨーロッパのリベラリズムが崩壊したことに応じて出現したというのが一般的な理解だろう。
だが、歴史家マシュー・スペクターの2022年刊行の著書『大西洋のリアリスト』(未邦訳)によれば、リアリズムが発展したのは1880~1890年代だったという。当時は帝国主義政策のもとにグローバル化が進み、ドイツや米国といった新興工業国が、地球という限りのある惑星の支配をめぐって英国やフランスと競い合った時代だった。
構造的リアリズムと言われるミアシャイマーの理論は、5つの前提を土台とする。
その第一の前提は、国際システムがアナーキーだということ(諸国家の行動に制限を加えられる至高の権威も夜警組織も存在しない)。
第二の前提は、すべての大国が攻撃的軍事力を持つこと。
第三の前提は、どの国家も、ほかの国家の意図を完全には把握しきれないこと。
第四の前提は、国家として生き残っていくことが国家の最重要目標だということ。
第五の前提は、国家は合理的な主体として、アナーキーな時代をどのようにして生き残るかを考えていることだ。
ミアシャイマーに言わせると、このリアリズムの観点から考察すれば、ロシアがウクライナへ大規模侵攻を仕掛けたのは「驚くには当たらない」という。
いまではすっかり評判が悪くなった「なぜウクライナ危機は西側のせいなのか」という彼の2014年の論文では、NATOとEUの東方拡大に加えて、2004年のオレンジ革命を皮切りにウクライナで民主化運動が盛り上がったことについてこう書いている。
「西側諸国はロシアの裏庭に侵入し、ロシアの戦略的利益の中核に対する脅威となっているのだ」
それではロシアがウクライナに仕掛けた戦争は、「正しい戦争」だと言えるのだろうか。ミアシャイマーは次のように言う。
「ロシアは予防戦争としてウクライナに侵攻しているので、正戦論から言うと、許されるものではありません。ただ、ロシアの指導者たちが、自分たちの侵攻は正しいと考えているのは間違いありません。ロシアの指導者たちにしてみれば、ウクライナのNATO加盟はロシアの存亡を脅かすものであり、その脅威は取り除かねばならなかったからです。
世界各国の指導者の大半は、自国の存亡が脅かされたなら、予防戦争を起こしてその脅威に対処することを『正しい』と考えるはずです」
これは物議をかもす議論だ。非常識とさえ言えるだろう。こんな議論を提示したことで、ミアシャイマーは恥知らずというレッテルを貼られた。
だが、その一方で、YouTubeでセンセーションを巻き起こすことにもなった。彼が2015年、シカゴ大学での講演「ウクライナ危機の原因と結果」で西側諸国の問題点を指摘した動画がYouTubeに投稿されたのだ。
その講演の動画の再生回数が2500万回を超えたことをどう思うか尋ねてみると、彼は「2950万回です」と再生回数を訂正した。もしかしすると、ミアシャイマーは見かけ以上に、自分が脚光を浴びていることに関心を持っているのかもしれなかった。
戦争論の権威である英国人国際政治学者のローレンス・フリードマンは、ミアシャイマーとは1980年代からの知り合いだ。だが、フリードマンは、ウクライナに関するミアシャイマーの見解を「許しがたい」と断ずる。その言葉は、ミアシャイマーを批判する多くの人の声を代弁していると言っていいだろう。フリードマンは言う。
「ジョン(・ミアシャイマー)がロシアの行動を解説すると的外れになるのは、国際システムばかり見て、国内で何が起きているのかを見ようとしていないからです。
彼はウクライナがNATOに加盟しようとしていたと言っていますが、そんな事実はありません。また、ウクライナには自国の針路を決める権利がないといったことを言って悪びれる様子もありません。ロシアがウクライナをまるで植民地であるかのようにみなして振る舞っていることも見ようとしていません。
私はリアリストを自任していますが、いまそこにある現状を見て判断するのが私のリアリズムです。何らかの理論に教条主義的に固執して、自分が見たい現実を見ようとするリアリズムではありません」
過去にミアシャイマーの業績を褒めたたえた人のなかにも、ウクライナに関してミアシャイマーが分別を失ったと考える人がいる。国際政治に詳しい米国人作家ロバート・D・カプランは2012年、「アトランティック」誌に「なぜジョン・J・ミアシャイマーは、(いくつかのことに関して)正しいのか」という人物紹介の長文記事を書いたことがある。
カプランは、その記事でミアシャイマーを「仲間内でしか通用しない従来の外交政策に関する専門用語を廃し、これからの数十年間に米国が進むべき針路を見通せる案内役だ」と書いた。そのカプランにいまのミアシャイマーについてどう思うか取材をしたところ、メールで回答があった。
「一線を越えてしまっています。侵攻するというプーチンの決断は、きわめて個人主義的なものでした。ロシアのエリートの大半が不意を突かれ、ショックを受けたのです。ですから大虐殺に対して道徳的責任があるのはプーチンです。西側諸国ではありません」
ミアシャイマーのリアリズムが、伝統的なリアリズムよりも暗い世界観に彩られているのは、悲劇を強調するところがあるからだ。彼は私に語った。
何が悲劇なのかというと、たとえばここにふたつの国家があるとします。どちらの国家も、現状で満足し、戦うことにも、権力をめぐって争うことにもまったく関心がないとします。しかし、両国とも、相手の国が何を考えているのかがわかりません。加えて両国ともアナーキーな国際システムのなかで動かなければなりません。その状況では、両国とも、相手国が引き起こしかねない最悪の事態を想定しなければなりません。
その結果、両国は権力をめぐって争うことになるのです。多くの人は、この悲劇の論理から抜け出すのは無理だと言われても納得しません。しかし、私が言いたいのは、この世界では、大国がつねに安全保障のために争い始め、ときには戦争が勃発してしまうことです。私たちがそんな世界から抜け出すことは未来永劫、不可能なのです。
これは強烈に禍々しい世界観だ。いうなれば、複数の大国が「鉄の檻」に入れられていて、その檻の中で権力をめぐって争うことを強制されているという世界観である。1989年以後、西側諸国で主流になった考え方とは大きく異なっているのだ。
フランシス・フクヤマが、『アメリカン・マインドの終焉』の著者として知られる保守主義の哲学者アラン・ブルームに招かれてシカゴ大学で冷戦の終結について講演をし、あの有名な「歴史の終わり」を宣言したとき、ミアシャイマーもその場にいたという。
講堂の一席でその話を聞いたミアシャイマーは、リベラル・デモクラシーがイデオロギーの進化の終着点だという議論に幼稚だという感想を抱いた。とはいえ資本主義の勝利によって、その後の米国の外交政策の形や目標が定まったというフクヤマの主張は理解できた。
「西側諸国のほとんどの人は、大国政治の悲劇を逃れて、もっと平和な世界に移ろうとしていたのです。だからこそ、大国政治の悲劇は超克できると語るフランシス(・フクヤマ)のエッセイに、多くの人の心が惹かれたのです」
ミアシャイマー版のリアリズムに出てくる言葉は、アナーキー、鉄の檻、「万人の万人に対する闘争」という自然状態、悲劇、権力、戦争などだ。本人も認めるように、これは「耳に心地いい物語」ではない。とりわけ米国の政界で多用される、進歩、人権、協力、市場開放、民主主義といった、人を鼓舞するような元気な言葉遣いとは対照的なのだ。
ミアシャイマーは言う。
「リベラリズムには、進歩への信仰が埋め込まれています。世界をいまよりもよい場所に変えられるという信念があるわけです。それに対して、そんなことは無理だというのがリアリズムの立場です。国際政治は、これまでも、これからもずっと悲劇であり続けます。この鉄の檻を抜け出し、『万人の万人に対する闘争』の世界を超克できると考えるのは、幻想に過ぎません。だから私がこの話を始めると、リベラルはひどく苛立つのです」
学者仲間を除くと、米国政府の周辺にあまり友人がいないのは、この辺に理由があるのだろう。ミアシャイマーは米国の外交に携わるエリートが嫌いであり、エリートのほうも彼が嫌いだ。
「シンクタンクから招かれることもありませんし、政策立案者から助言を求められることもありません。ワシントンDCに行くと、私は水からあげられた魚のように場違いです」
もっとも、ここには皮肉もある。米国は大国として、リベラルのように語りつつ、実際はリアリストとして行動してきた、というのがミアシャイマーの長年の持論だからだ。
1991年から2017年までは、米国の一極支配の時代であり、米国の力は地球の隅々にまで及んだ。このとき米国の外交に携わるエリートたちが、リアリズムの原理原則を捨て、リベラリズムを米国の外交政策の方針を定めるソフトウェアに変更し、資本のために世界に安全をもたらそうとするようになったのだという。ミアシャイマーは言う。
「冷戦期の米国の行動は、リアリズムに則っていました。また、2017年に新たに多極世界が出現したときも、米国の戦略は、とりわけ対中国と対インドの政策ではリアリズムに徹しています」
ただしリアリズムは昔から米国人の感性に馴染まないのだ。それはフクヤマが1990年代に、大国同士が権力をめぐって争う可能性がなくなったと考え、リアリズムは終わったと言ったところからも窺える。当時、フクヤマはこんな事を書いている。
「リアリストは、もはや存在していない病気を治療しようとしているかのようだ。いうなれば、健康な患者に、値段の高い、危険な治療法を提案しているわけだ」
ミアシャイマーは祖国の米国では受け入れられなかったが、米国と敵対する国々では歓迎された。2016年にはロシアのソチで開催されたヴァルダイ・クラブという「いま作られつつある未来」について語り合う会議に招かれこともある。
このイベントの終わりに、ミアシャイマーは間近からプーチンが質疑応答で話すところを見る機会があったという。そのときプーチンを見た感想を尋ねると、指導教官が優秀な教え子のために書く推薦状のような回答が戻ってきた。
「私は見てすぐにわかりましたし、おそらく会議の出席者全員が感じたはずですが、プーチンは驚くほど知識が豊富であり、第一級の分析能力を持っていました。しかも圧倒的な存在感があります。もちろん彼の言う事のすべてに同意できるわけではありませんが、彼が第一級の戦略家であり、西側諸国の対戦相手としては手ごわいことに疑いの余地はありませでした」
ミアシャイマーは中国でも人気だ。
「ワシントンDCにいるときよりも、北京にいるときのほうが、知的な面でも、外交政策の考え方でも、自分の居場所が感じられます。中国人は骨の髄までリアリストですからね」
ミアシャイマーは、中国で講演をするとき(直近では2019年に武漢に行った)、冒頭でよくこう言う。
「こうして身内のところに戻ってくると感慨もひとしおです」
それからこう続けるのだ。
「どういうことかと申しますと、それは中国人のみなさんがリアリストなので、私としゃべる言葉が共通だということです。私の話に深い関心を抱いてくれますしね。そこが米国政府の人々と全然違うところです」
ミアシャイマーは、中国の学者や政府関係者と話をするという。決まって話題になるのは、中国が米国と同等の力を持った国として台頭したときのことだ。
「中国側は自国が平和的に台頭できる道があるはずだと考えています。でも、それはあり得ません。中国の台頭が今後も続くなら、いつかは安全保障をめぐって米国と争うことになります。中国人たちは、私のそんな議論を言い負かしたくて、私と話したがるのです」
米中という大国同士の戦争は、つねに可能性として存在しているというのがミアシャイマーの見方だ。核攻撃の応酬といったことはひとまず脇に置くと、米中戦争は第一次世界大戦や第二次世界大戦に似たものになるはずだという。
通常戦は、基本的にあまり変わっていないというのが私の考えです。いまでも第一次世界大戦や第二次世界大戦とかなり似たことをしていますからね。
ミアシャイマーは続ける。
「変わったのは、監視と偵察の分野で技術が進歩したことです。その結果、戦争当事国が奇襲を仕掛けるのが難しくなっています。また、新型の兵器は致死性が高くなっています。つまり、防衛する側から見ると、攻撃してくる相手は見つけやすいし、殺しやすくもなっているのです。ですから攻撃を成功させるのが、前よりも難しくなっています。それは最近のウクライナの反転攻勢で見られたとおりです」
ジョン・ミアシャイマーのウェブサイトを開くと、トップに彼の肖像画が現われる。ルネッサンス時代の外交官・哲学者のニッコロ・マキャヴェッリの体の上にミアシャイマーの顔を乗せた代物だ。
これはペンシルベニア大学の学生たちからプレゼントされたという。ミアシャイマーは2016年、同大学の文学結社「フィロマシアン・ソサエティ」で講演をした。原画は現在、その文学結社の部屋の壁に飾られている。作品名は、ミアシャイマーとマキャヴェッリを組み合わせた「ミアキャヴェッリ」だ。
じつにぴったりのあだ名である。マキャヴェッリは、政治から道徳を切り離した最初のリアリズムの理論家だとしばしば評されるからだ。統治者のための指南書として書かれた『君主論』が、マキャヴェッリの死から5年経った1532年から出回るようになると、マキャヴェッリは、ヨーロッパ全土で非難されることになった。
レジナルド・ポールというイギリス人の枢機卿に言わせれば、マキャヴェッリは「人類全体の敵」だった。16世紀の学者ジョン・ケースは、マキャヴェッリについて、暴君を擁護する人物であり、「アストレアの時代の平和と安定と繁栄を脅かす大きな要因のひとつ」だと言った。20世紀になっても哲学者のバートランド・ラッセルが『君主論』を「ギャング向けの手引書」と評した。
しかし、これほど悪評まみれなのに、現代の政治について考える人は全員、権力の獲得の仕方や行使の仕方に関して、マキャヴェッリの思想と向き合わざるをえない。
前出の作家ロバート・カプランに言わせれば、ミアシャイマーは大国政治についての理論を構築し、「政治学の世界で最も先見的な論客のひとりとなった」という。
だが、西側諸国の外国政策に関する見解、とりわけ西側諸国の外交政策が冷戦終結後の世界に大混乱を引き起こしたという見解のせいで、ミアシャイマーは西側と敵対する国々にとって都合のいい人物として振る舞っていると非難されているのだ。前出の国際政治学者ローレンス・フリードマンによれば、ミアシャイマーは、いま「孤立」状態にあるという。
だが、米国の政治学者リチャード・K・ベッツがこんなことを言っている。かつてベルリンの壁が崩壊したとき、フクヤマの「歴史の終わり」論が時代精神をとらえた。同様に2001年9月11日の米国同時多発テロ事件のあと、ハンチントンの「文明の衝突」論が時代精神をとらえた。それならば、ミアシャイマーの不穏な理論も、近い将来、時代精神をとらえる可能性があるのではないだろうか。
仮にこれから幕を開ける新時代が、大国同士が争い合う時代だったらどうだろうか。ウクライナとロシアのあいだに平和が訪れない状況が継続し、米中が台湾をめぐって対立するようになれば、世の人は、厳しい真理を伝えることを専門としてきたこの思想家に目を向けざるをえなくなるのかもしれない。
そのとき私たちの耳に響くのは、私たちがこの世界の悲劇から永遠に逃れられないという戦慄のメッセージなのだろう。