デジタル時代の夢と権力 2017.05.24
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いまデジタル時代になって「夢とはなにか」をもういちど考えないと、今の世界の問題は解けないと思っているんです。夢の問題を通じて、フロイトの重要性が浮かび上がってくる。
テクノロジーの発達によって、「スリープ・モード」で待機しているコンピュータマシンにヒトの眠りの活動が接続され、夢がスキャンされ解読されるということも起きつつあります。
僕たちの社会はますます眠らなくなると同時に、眠っているあいだすら、マシンと常時接続して夢が解読されるようなところまで進んできている。それは、ドゥルーズ的なコントロール社会を超えたハイパー・コントロールな社会というものが、技術的な射程に入っていることを意味します。
いずれ機械学習させて、ビッグデータを蓄積するという話になるでしょう。そうすれば精度がどんどん上がっていきます。だから、夢のデコーディングが社会に実装される可能性は非常に高い。夢を「解読する」つまり「書き取る」ことができるようになれば、夢を見させたり、人工的に書き換えるプロジェクトが当然進んでいくでしょう。夢のなかにコマーシャルを流すようなことさえ、夢ではないかもしれない。
ハイパーコントロール社会では、ハーバーマスの言う生活世界の植民地化やフーコーの「生政治」が、眠りと夢という領域の中にまで食い込んでくるわけだから。
フロイトは夢とは願望充足であると言いましたが、テクノロジーによる夢の解釈が人間による解釈に取って代わられる状況を、フロイトならどう考えるでしょうか。決してフロイト主義者ではないぼくが、それでも「フロイトへの回帰」を主張しているのは、「夢」の解釈をめぐる認識論的なせめぎ合いが、これから拡がっていくだろうと予測しているからです。
20世紀にフーコーが立てた知と権力とテクノロジーの問題は、デジタル時代には更に強い強度で問われる必要があります。そのときに、フーコーの最初の著作がヒントになるかもしれない。「夢と権力」「夢と資本主義」というあらたな問題設定をする力が、いま人文学者に求められているわけです。
ジョナサン・クレーリー著『24/7眠らない社会』生活世界の全面的なデジタル化による「自動化社会 Automatic Society」の到来と24/7キャピタリズムの問題が、総合的に問われることになります。
ベルナールが最近語っているように、現在の技術革新は、シュンペーターの「創造的破壊」ではなく、「破壊的破壊」をもたらすことによってショックを引き起こし、そのディスラプションの効果が、現在の世界に大きな影を落とすようになった。
世界全体がデスクトップと化し、物たちがIoTによりリアルタイムでコミュニケートし合いまさしく24時間、ICTとのインターフェースにおいて営まれるようになったヒトの生。
20世紀中葉のサイバネティクスから始まった、このメディアの「デジタル転回」に、私たちは、いかなる見通しを持つべきなのか、Hyper Control によるAutomatic Societyへのヒトの生の転位を、いかに理論化(=批判)していくのかが問われることになります。
Big Dataと呼ばれる巨大なデータの収集とマイニング、解析、管理のテクノロジーが、「理論の終わり」の論争を呼び起こし 、「アルゴリズムによる統治性」が批判されるようになる。フーコーが前世紀に問うた統治性の問題の現在はそこにある。
サイバネティクス化していく世界を問い直し、『自動化社会 労働の終わり』 でこの問題を正面から取り上げたStieglerの仕事を手掛かりに、「解放」のパースペクティブを描く事がいま必要となっている。
まさしく、デジタル革命による知のdisruptionは、人文社会科学の「破壊」をもたらした。「知のデジタル転回」を思考しえない知は、まさしく「思考停止」して、ショック状態に置かれているのだと思います。