シンギュラリティはより近く 2025.01.09
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池田純一ブックレビュー
シンギュラリティはもうみんなのもの、カーツワイルだけのものではない、すでに一般に広く通じたコンセプトである……。
シンギュラリティへの到達によって、人類を知的に凌駕したAIが人類を支配下に収めるという、よくある『ターミネーター』のスカイネット誕生シナリオは否定し、その代わりに、人間が超知性(AGI)と接続することで実現される「知能爆発」の意義を特定する。
カーツワイルは、AIを人類に敵対するものとは見ない。そうではなく、むしろAIを人間の一部として個々の人間存在に取り込む可能性を説く。そのために、脳(正確には大脳皮質)と(AIが常駐する)クラウドを直接接続することに期待する。いわゆるBMI(Brain-Machine Interface)ないしはBCI(Brain-Computer Interface)のことであり、イーロン・マスクがNeuralinkで実現を夢見る世界だ。
カーツワイルにとってAIはあくまでも人類の能力を補強する「テクノロジー」のひとつだ。だから、AIに支配される未来など想像しない。AIは人類の知的能力を補強する「技術」にすぎない。それは彼が、クラウドに常在するAIをあくまでも個々人の大脳皮質の拡張とみなすことに拘っているところからもわかる。どこまでいっても「外付けの脳」なのである。
そのような人間とAIの融合を前提にするからこそ、彼の描くAIと人類が共存する未来は楽観的なものになる。AIは道具に過ぎず、主導権を握るのは人類の方だからだ。
ただ、AIが人間の一部になるというメディア論的事態は、見方を少し変えれば、一人一台時代になったスマフォが原始的に、あるいは擬似的にすでに実現していることでもある。したがってBMIを介するかどうか以前の段階で、社会的な議論が多数湧き上がってしかるべきだ。実際、過去10年余りの間に、そうした「AI警戒論」はいくつも唱えられた。すでにAIは国家安全保障上の問題のひとつである。
この10年でAIを巡る議論は技術の域をとっくに飛び越えてしまった。実はこのことが、カーツワイルの予見が以前ほど面白くないことの理由だったりする。シンギュラリティはすでに「公論」なのだ。ひとりカーツワイルが実現を期待する夢=幻想ではない。複数の異なる視座からの検討があって当然。ただ、こうした事態も、AIの実現が現実化したからこそ生じたものだ。であれば、この本が退屈な印象を与えるとしたら、それはカーツワイルのせいではなく、世界のせいなのだろう。
以下ではカーツワイルの前作(『The Singularity is Near』)を『ニア』、本作(『The Singularity is Nearer』)を『ニアラー』と略記する。
そう断った上で率直に言うと、『ニアラー』には特に目新しいところはない。『ニア』の中身の焼き直しであり、『ニア』刊行後の進捗状況のレポートである。読後の印象も退屈だった。そこにあるのは、永遠の命を望むトランスヒューマニスト・カーツワイルの変わることのない願望だった。
老いが単なる加齢による生体機能の減退のことだけでなく、当該人物が生きている社会の情勢からも構成されるものであることを示唆しているようだ。その結果、『ニア』のときにはあった同時代性は消失し、先見性も後退しているように見える。
2005年に発表された『ニア』は、2010年代半ばのAIブーム、それも「ディープラーニング」に代表されるコネクショニズムモデルの台頭を予見したものとして注目を集めた。シンボリズム型のAIと違って、ニューラルネットワークにヒントを得て構築されたコネクショニズムモデルのAIの実現には、超並列処理を可能にする超高速の演算能力と、学習対象としての膨大な量のデータがともに必要だったのだが、前者は「ムーアの法則」に基づく演算能力のべき乗的発展によって、後者はスマフォとソーシャル・メディアが浸透した情報社会の定着によって、ともに手が届くものになった。NVIDIAのGPUが登場する一方、世界中のユーザーたちが日々のコミュニケーションを通じて無数のテキストと画像をクラウド上に蓄積している。
カーツワイルは、いまでいうLLMモデルによるジェネラティブAIの到来を予見したことで、その先見性に信頼を置かれ、その結果、『ニア』に書かれた他の要素、すなわち、「2045年のシンギュラリティの到来」や「人間とAIの融合によるGNR(遺伝学・ナノテク・ロボット工学)の発展」、さらにはそのGNRを駆使した「人間を越えた人間であるポスト・ヒューマンの誕生」といった点でも話題をさらった。その結果、カーツワイルはテック・アイコンになり、カルチャー・ヒーローとなった。
ここで少し当時のことを思い出してみよう。2010年代の初めといえば、2007年のiPhoneの登場から始まったスマフォ時代の立ち上がり期であり、スマフォを手にした人びとがFacebookやTwitterを使って任意に繋がり始め、Instagramの登場でテキストだけでなく画像も扱えるようになった時代である。次々に登場するテクノロジーによって人びとの行えることが格段に広がっていく夢のような時代。テクノロジーに対して楽観的になれる時代だった。今日Big-Techと呼ばれるシリコンバレーの大企業群──Google、Facebook、Amazon、Apple等々──も、当時はスケールを成し遂げたばかりの成功者として称えられていた時代だ。
そのような「テクノロジーの大波」、「イノベーションの称賛」、「スタートアップへの憧れ」の時代にあって、「その次の時代」を築くための、期待のテクノロジー・コンセプトとして台頭してきたのが「シンギュラリティ」だった。当時、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を遂げていたGoogleが、今ならイーロン・マスクのお株である「X」を冠して、次世代テクノロジーユニットとして「Google X」を立ち上げ、そこにAI研究の第一人者として招聘されたのがレイ・カーツワイルだった。
それまでのGoogleの戦績にカーツワイルの先見性が交差することで「未来がいち早く実現される」場が夢見られた。Google Xでは、それこそカーツワイルのいうGNRの領域、すなわちバイオ、ナノテク、ロボットでのイノベーションを目指す研究開発が行われた。昔ながらの『WIRED』読者なら当時のGoogle Xの持ち上げられぶりを記憶している人も少なくないと思う。
SFは未来への霊感を授けてくれるものとして捉えられ、「スペキュラティブ・フィクション」という形で、現実社会の創造に資するための方法論として持ち上げられさえした。そうした未来的想像力を刺激したものとして確かに「シンギュラリティ」というコンセプトは存在した。当時のフラグシップとなる概念だった。
2005年に書かれた『ニア』はこのように社会に受容された。いやそれだけでなく、ある意味正しく通俗的に消費された。それは主に、シンギュラリティに漂う終末的雰囲気に依っている。
カーツワイルの説くシンギュラリティとは、ある未来の時点X(具体的には2045年)において、今ある人類は終わり、新たな人類が誕生する、というナラティブからなるが、それはキリスト教における「終末」のシナリオをなぞっている。シンギュラリティに達した瞬間、AGIが誕生するという展開は、終末にキリストが再臨するという話とパラレルだ。その時点で人類は死を超越する、という(主にはカーツワイルの)期待も、そこでキリストの再臨とともに死者も復活し最後の審判に備えるという流れと並行的。つまり、キリスト教の終末観や千年王国論を連想させるような構成になっている。言ってしまえば21世紀を迎えるときに盛り上がったY2Kのようなもので、その点で、カーツワイルとシンギュラリティは、『ノストラダムスの大予言』のように消費された。先述のようにAIに触発された映画やドラマが立て続けに製作されたのも、こうした終末的な想像力を刺激されたことが大きい。なぜならどれも決まって陰惨な世界を描いていたからだ。
カーツワイル的には人類の進化という超ポジティブな話だったものが、いつの間にか、ディストピアに通じるものに読み替えられていた。
もっともそのように悲観的に読み替えられたことで、ひろく「人類の生存リスク」に警鐘を鳴らす言説に注目を当てることにも役立ったのも確かなことだ。気候変動や隕石衝突や火山の大噴火に対する国連の警告も、シンギュラリティという話題なしではスルーされていたことだろう。
AGIによる人類支配、ひらたくいえば、『ターミネーター』のスカイネットが現実化する世界の想像力が反復された。そうしたポップカルチャー的な、あー、それはちょっと困るなぁ……という安っぽい危惧や恐怖がなければ、人類の生存リスクのことが、一般の人びとの間にも届く社会問題となることもなかったことだろう。人新世だけなら、リベラルな意識高い系のひとたち(要はWoke)の間に留まっていたはずだ。AGIが持つポップカルチャー的想像力があればこそ広範な「人類生存リスク」について人びとのアテンションを掴むことができた。AGIが終末物語として通俗的に消費されることは大きかった。
ちなみにこの「人類の生存リスク」については、2020年に世界を襲った「コロナ禍」というパンデミックによって、想像の世界だけでなくリアルな世界の災厄として実際に経験された。さらに、その後立て続けに勃発したウクライナ戦争やガザ紛争によって「黙示録の四騎士」の連想すら容易になった。「疫病」と「戦争」がリアルになったからだ。
こうしたテクノロジーに限らない実世界の変化が、『ニア』のようなインパクトを『ニアラー』が纏えなくなった理由でもある。現実の世界のほうが終末的で黙示録的な想像力を促すような事件に溢れてしまった。
裏返すと、『ニア』のときにあった、こうした通俗的な影響を含む「同時代性」や「先見性」は、『ニアラー』にはない。あくまでも『ニア』の落穂拾いであり「祭りの後」感は拭えない。ついでにいえば、2020年代半ばの現在、テックの中心もGoogleではなく、イーロン・マスクたち新世代に移っている。Big-Techもまた大企業病に陥り、かつてのような革新的なビジネスを提案できなくなったとの評価が絶えない。
もちろん、『ニア』の文化的消費はカーツワイルの望んだものではないだろう。彼は単に、シンギュラリティを迎えることで、彼の望む(ネットワークからなるグローバル・ブレインに繋がれた)永遠の生を実現したかっただけであり、それは今でも変わらない。その点では確かに彼が言う通り、最初の著作である『スピリチュアル・マシーン』から『ニア』を経て『ニアラー』に至るまで彼の主張は一貫している。だから、目新しさがなくて当然なのだ。シンギュラリティとは、経営理論のようなブートストラップなマッチポンプな言説と違って、あくまでも科学技術的な達成目標である。『ニアラー』が『ニア』の進捗報告になるのは、科学研究者であるカーツワイルからすれば当然だ。学術論文のような積み重ねの世界なのだから。
結局のところ、変わったのは、書かれた中身を受け止める読者や社会の側だった。『ニア』と『ニアラー』を並べることで、2010年代と2020年代で、テクノロジーを巡るカルチャーシーンが大きく変わったことがわかる。それがこの本を読んだ一番の収穫だった。シンギュラリティは、本来は求めていなかったものの獲得してしまった「文化的輝き」を失い、粛々とその実現を望む技術者たちによって開発が進められる「一技術」に戻った。それだけ社会の側で、テクノロジーに対して「これは眉唾物かも?」と思いながら評定する眼力が養われた、ということなのかもしれない。
もう一つ、そもそもアメリカという社会も、「シンギュラリティ」のようなビッグワード、グランドコンセプトで社会の空気を作れるような「マス・メディア」が言説を制御できた時代を終えてしまった。誰もが認める権威がなければ、そもそもこうしたグランドコンセプトのもとで、具体的な言説や計画、創作をなすことはできない。「シンギュラリティ」が社会の進む(べき)方向を示した「グランドナラティブ」だったとすれば、そのような「大きな物語」がアメリカでも永続性をもちえず容易に失効する時代を迎えたわけだ。
ニューヨーク大学の心理学者ジョナサン・ハイトによれば、スマフォの普及でアメリカ社会が、蛸壺的で閉塞的なエコーチェインバーに囲まれたメディア空間に移行したのが2014年あたりからのことだから、まさに「シンギュラリティ」が人口に膾炙するようになったそばから、すでにそのような「大きな物語」が自壊する時代を迎えていたことになる。
振り返ると、『ポスト・ヒューマン誕生』という前作の邦訳タイトルが示唆するように、そもそもキリスト教の終末概念に疎い日本社会にとっては「シンギュラリティ」の含意もあまり理解できてはいなかった。「ポスト・ヒューマン」という、人間の「作り変え」や「更新」のイメージがせいぜいだった。ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』のように、もっぱらトランスヒューマニズム的未来のほうが理解しやすかった。もちろん、西洋人にとっては「新たな人間への転換」もまた終末と関わることなのだが。
終末が果てしなく遠くにあるときならば、その未来を語ることは、多分に霊的なオカルト的なものになる。その意味で、カーツワイルが、シンギュラリティをテーマにした第1作のタイトルが『スピリチュアル・マシーン』であったことは示唆的だ。この1999年に出版された第1作から四半世紀を経た現在、カーツワイルの予測によればチューリングテストを突破するAIが登場するとされる2030年はもう目前である。
シンギュラリティ、すなわち終末の到来がいよいよ間近に迫ったとなると、そこに加担し天国への道を確定させようとする輩も多数湧いてくる。ここで、日本ではイノベーションによる資本主義の加速による世界の転換と解釈される「加速主義」が、アメリカではもっぱら極右のヴァンダリズムのことを意味するようになったことに注意しよう。今のアメリカの報道では、加速主義といえば、J6(=1月6日連邦議会襲撃事件)を引き起こした暴徒たちを焚き付けた思想として紹介される。現在のアメリカは腐っているから、それを早く(=加速して)転覆させ新たな国を築く方がよい、という発想だ。
いうまでもなく、この破壊を求める言動も、典型的な千年王国思想である。既存のアメリカ政府、あるいはその中核を占める民主党政治家、いわゆる「ディープステイト」は、地上の民をかどわかす「アンチ・キリスト」であり、だから打倒しなくてはならない。トランプはその活動をいざなう救世主である、という見方だ。
カーツワイルからすれば自説を捻じ曲げられたと思うのかもしれないが、彼自身の「シンギュラリティ言説」の枠組み自体が、歴史の抜本的転換点を設定したという意味では(武装蜂起を含む)革命思想と近く、その上、彼が対象としたのが「人間の更新」、すなわち「死を克服する長命化」にあったため、宗教的メッセージとして受け止められてもおかしくなかった。その意味では、彼のシンギュラリティ言説自体が、70年代のベイエリアで花開いたニューエイジやヒューマン・ポテンシャル・ムーブメントの系譜に連なる、いわば「現代版」だったと思うべきなのだろう。
急いで付け加えると、シリコンバレーのオカルトやスピリチュアルへの接近は、何もカーツワイルに限ったことではなく、これまでも何度も繰り返されてきたことだ。それはシリコンバレーの「事業開発」対象が生命科学や脳科学といった領域に迫ってきたことでむしろ増している。合理的に精神のフロー状態を制御しようとする「マインドフルネス運動」などは、その最も通俗的に成功したものだし、社会福祉(ウェルフェア)に代わって「個人の健全さ(ウェルビーイング)」が喧伝されるようになったのも、広い意味でニューエイジ的関心の延長線上にある。こうした動きは、2010年代に完全に一人一台のスマフォ時代になって「個人の健康管理もアプリで」行うバイオハック時代になって完全に日常化した。健康管理が消費財になった。
それくらいこの10年間で世の中の情報メディア環境は激変した。だから何もカーツワイルだけが置いてきぼりにされたわけではない。本書の退屈さは、むしろ研究に没頭する科学者の外にある世界がそれだけ激変したことを表していると解釈すべきなのだろう。
一言で言えば『ニア』の時代は単純でシンプルだった。世界はアメリカを核にしたリベラルな世界観の下で、その推進役としてテクノロジーに素直に期待することができた。そのような言説を「コモンリアリティ」として安定的に供給する社会やメディアが存在した。
それに対して『ニアラー』の世界は過酷だ。「加速」の合言葉は、終末を早めるためのヴァンダリズムの掛け声として使われる。
テクノロジーはそうした終末を早めるための道具としても考えられる。安定的な「コモンリアリティ」はすでになく、それを確約してくれていた権威もない。カーツワイルが多様性に配慮した社会の議論として援用する、友人のスティーブン・ピンカーやダニエル・カーネマンの議論やエピソードも進歩主義的な見解のひとつにすぎないと一蹴される。
ピンカーのように、断固として陽気な説明を支持する現代の楽観主義者──他にはマット・リドリーやリチャード・ドーキンスなど──はときに「ニュー・オプティミスト」とも呼ばれるが、そうしたニュー・オプティミストの議論を援用することでカーツワイルは技術的楽観主義を貫いていた。
だが、シリコンバレーで現在最も元気なのは、悲観主義に訴えつつ現状の世界をドラスティックに書き換えようとしている「保守のフリをした反動主義者」たち。イーロン・マスクの他にマーク・アンドリーセン、ピーター・ティール、ディヴィッド・サックス、ゲイリー・タン、JDヴァンスと続く。破滅のシナリオこそが人びとに届く時代だ。
いささかシビアな見方になってしまうかもしれないが、『ニア』と『ニアラー』の間にはそうしたテクノロジーが置かれる社会の変貌が横たわっている。厄介なのは、そうした社会の変容を呼び寄せた要因のひとつに、加速されたテクノロジーもカウントされていることだ。『ニア』が歓迎された2010年代が、いかにテクノロジーに携わる人たちにとって幸福なときであったことか。シンギュラリティへと収束しながら、世界の複雑さはいや増すばかりだ。