コンティンジェンシー 1350夜2010年03月08日
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https://1000ya.isis.ne.jp/1350.html #松岡正剛 リチャード・ローティ 偶然性・アイロニー・連帯
必然性など無い、全てはコンティンジェントである
原題はコンティンジェンシー(contingency)である。日本語にするなら「偶有性」やや哲学的に「別様可能性」。
コンティンジェントであるということは、まずは偶然性や偶発性に自覚的になるということである。
自身におこった偶発性や偶然性を、その来し方と行方を情報知覚して、そのコンティンジェントな機会によって出入りした、出来事・情報・知覚・思索の一切を新たに編集していくということ、これがコンティンジェントである。
生起するかもしれない可能性のすべてがコンティンジェンシーなのだ。ここには「偶然の本質」がかかわっているとともに、「生起の本質」がかかわっている。
コンティンジェントな当事者や当該システムが新たな事態(=現在)にさしかかったときに、そこに連なる歴史や思いちがいや創発的な発見を、たとえ当初の方針や目的から軌道が逸れようともそのまま引き受けていくという偶発的投企に、当事者が当該システムがあえて向かっていくということ、それがコンティンジェントな態度や方針である。
ローティは本書において、このコンティンジェンシーをメタフォリカルに扱って、言語や自己や共同体の本質そのものにあてはめた。
哲学としては、誰も言語・自己・共同体に対して全面的にコンティンジェンシーを付与させるなんてことはしてこなかったのである。タルコット・パーソンズやニクラス・ #ルーマン が社会学でとりあげたことは、例外的だったのだ。
「言語の偶然性」とは、意味の出現は「つかのま」で、言葉が「たまたま」と出会って放出されるその時々の「つかのま」の様子のことをさしている。
ありとあらゆるメタファーが、その時々の「つかのま」においてコンティンジェントに、それらを新たな意義に向かわせる。
理性から発する理論には本来的なコンティンジェンシーが抜け落ちている。
「メタファーによる再記述」こそが思想の端緒と方向を示すものであって、さらには「これまで一度も使われなかった言葉を用いることがコンティンジェントな創造性ではないか」という見方となる。
意味の創出にはリスクが伴っていて、そこにコンティンジェンシーが働いているということになる。
ルーマンは、オートポイエティック・システムでは、言語がメディア的になっていると指摘していた。“メディア言語”という言い方もしていた。
リチャード・ローティはルーマンには一度も言及していないが、何かがどこかでつながっているように見える。
ローティもメディア言語がすこぶるメタフォリカルなもので、そうであるがゆえに「意味」は、つねにコンティンジェントでなければならないとみなした。
加えてローティは、コンティンジェントな「メタファーの再記述」は、つねに社会歴史的なものを継承するということに気がついていた。
ルーマンもローティも「認識の障害」からの脱出をはかろうとした。社会学が社会システムに言及し、哲学が哲学システムに言及するには、そこに生ずる気配やノイズにこそ気がつかなければならないのである。
ルーマンはそこにダブル・コンティンジェンシーという「はずみ」を切り出し、ローティはそこにコンティンジェントな「アイロニー」とコンティンジェントな「連帯」の萌芽を見たわけである。本書が『偶然性・アイロニー・連帯』となっているのは、そういう意図だった。