ウィリアム・ギブスンのSF 2020.03.06
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ウィリアム・ギブスンのSFは、なぜ予想される未来ではなく「現在」を描きだしているのか
彼のストーリーはなぜ、常に未来ではなく「現在」を照らし出すのだろうか。
サイエンス・フィクションを書くように言われたとしよう。きっと未来を思い描くことから始めるのではないだろうか。
ウィリアム・ギブスンは、この方法を用いなかった。ギブスンは自分の方法に名前をつけていない。だが、それが未来予想と関係ないということだけは自分で認識している。
彼の方法は、未来予測の代わりに、いまこの瞬間に深くかかわることから始まる。
子どもたちがゲームセンターでアーケードゲームをプレイしているところを見た。まるで自分たちが画面の向こう側にいるかのように、子どもたちが体をひねったりかがんだりしていることに、ギブスンは気がついた。発売したばかりのソニーのウォークマンを手に入れ、夜のヴァンクーヴァーの街をジョイ・ディヴィジョンを聴きながらうろついた。そうしていると、音楽が脳に直接送り込まれ、高層ビルやスラムの眺めと溶け合うように感じられた。
デボラの生徒である若い日本人が、ヴァンクーヴァーが僻地であるかのように語っているのをギブスンは耳にし、東京はすごいところなのだろう、と思った。
メモ帳を広げて、スクリーンの向こう側の空間を描写するための言葉を考えていた。「サイバースペース」を思いつく前に、「インフォスペース」や「データスペース」という案が出てきたが、それらの候補は却下した。「サイバースペース」が実際どのようなものになるかはわからなかったが、よい響きだったし、危険を冒してでも探検する人が出てくるようなものに思われたからだ。
ギブスンが「サイバースペース」という単語を初めて使ったのは、1981年の短編『クローム襲撃』だ。このアイデアは1984年に出版された最初の長編『ニューロマンサー』のなかでより十全なかたちへと練り上げられた。彼が36歳のときに書いた作品だ。21世紀の中盤を舞台にして、「ニューロマンサー」が強盗を追いかける。強盗は、ときに物理空間に現れ、ときに「マトリックス」──オンラインの領域──に現れる。「マトリックスのルーツは、素朴なアーケイド・ゲームです」と小説内で説明される。「さらには初期の映像グラフィクスプログラムであり、頭蓋ジャックによる軍用実験です」。マトリックスに「没入ジャック・イン」することで、「操作卓コンソールカウボーイ」はデッキを使って新しい世界に入ることができる。
ギブスンは、コンピューターとそれがもたらす帰結について探求した最初のSF作家ではない。「サイバーパンク」として知られることになる運動はすでに始まっていた。しかし、『ニューロマンサー』は、コンピューターが隅々まで浸透した、物質面でも感覚面でもリアルに感じられる世界を想像することで、サイエンス・フィクションを変えた。ギブスンのハードボイルドな散文にはデザインや質感への狂信的なまでのこだわりがある。
『ニューロマンサー』にあるのは、継続的な到来だけだ。現在進行形の、驚くべき現在。「世の中は変わってない。世の中は世の中」と、意識の新しいレヴェルに到達したAIが報告する。「チビッ子どもに世代の断絶ジェネレーション・ギャップで遊ばれちゃいけないよ」。あるティーンエイジャーとぞっとするような出会いを果たした主人公のひとりが話す。この不確実な時間の感覚──われわれは未来に生きているのだろうか?──のなかで、『ニューロマンサー』は現代という時代にふさわしいサイエンス・フィクションとなった。時の流れと共にこの小説の影響力は高まり、ギブスンは来たるべき世界についての権威として認められた。
極端なまでに現在を志向するというギブスンの戦略は、いま現在の瞬間がそれ自体でサイエンス・フィクション的なのだという彼の信念を反映している。「未来はすでにここにある」と彼はかつて語った。「ただ均等に分配されていないだけだ」
2018年3月、わたしはギブスンにメールを送った。しかし、彼は再び本の出版を遅らせていた。「いまやケンブリッジ・アナリティカのせいですっかり考え直さなければいけない。大規模な書き直しを余儀なくされているんだ」と彼は書いた。「ある意味では滑稽かもしれない。でも、やっぱり大問題なんだ」
最近のハチャメチャ指数(FQ:Fuckedness Quotient)を深く読み解くことから始めているんだと彼は説明する。「この現在がどれだけハチャメチャでタガの外れたものになっているか。それに釣り合うようにフィクションを調整する必要がある」。彼は目を細めて眼鏡の向こう側の天井を見る。「それは知的なプロセスではないし、未来予知でもない。自分が信じる気になれるものに関わることなんだ」
『The Peripheral』のあと、彼は世界の「FQ」について見直さなければならなくなるとは思っていなかった。「トランプがエスカレーターを降りて立候補を表明するのを見たのはそのときだった」と彼は語る。「頭の中のシナリオをつくるモジュールが警告モードに入ったんだ。『ピー、ピー、ピー、最悪です、最悪です』といった感じにね。
でもそのとき、英国が国民投票でBrexitに『イエス』と言った。ぼくは考えたよ。なんてこった、英国でこんなことになるのなら、米国でもトランプが選ばれてしまうんじゃないかとね。事態はその通りになった。本を執筆する手が根本的に止まってしまった。これはただのスランプとは呼べない。そういう自然に起きるものではないからね。まったくの別物だったんだ。
彼は笑って言う。「というのも、状況は差し迫っているように見えるんだ。アメリカ合衆国の民主主義が崩壊する可能性を眺めているだけなのだとしたら、それは最悪だね。けれど、向こう10年の地球温暖化に対して何もできてなくて、最悪な失敗をしている最中だという文脈のなかで、アメリカ合衆国の民主主義の崩壊を見ているのだとしたら……もうわからないよ」。ワシが木に止まるようにスツールに座っていた彼は、バーカウンターをさっとなでて言った。「まるでテーブルのへりから落っこちたみたいだ」
父が7歳のときに亡くなった。ギブスンと母オティは、両親が育ったアパラチア山脈沿いの小さな町、ヴァージニア州ワイズヴィルに引っ込み、代々母親の家族が所有してきた家に落ち着いた。その前は、郊外でテレビを見ていたとギブスンは言う。「前は、窓の外から見えるのは現代世界だった。そこから、どう見ても1900年代前半だというあの場所に移ったんだ」。
ワイズヴィルでは、レコード音楽が来る前の時代について人々が語っていて、ラバで畑を耕していた。ミッドセンチュリーらしい要素は、ブラインドのすき間から射す光のように入ってくるだけだった。「この突然追放された経験、過去のように見えるところへと追放されたこの経験から、サイエンス・フィクションとの関係が始まった」と、かつてギブスンは書いていた。
「過去のなかに身を置きながら、その過去をばらして捉えられる人間になったよ。自分の進むべき方向を見出すために、あとはたぶん不安を払拭するためにね」とギブスンはわたしに語った。
彼が高校2年生で17歳の秋、母親が亡くなった。彼の母親が残した財産はほんのわずかだった。高校を卒業する代わりに、トロント行きのバスに乗った。屋外でひと晩を過ごしたあと、麻薬用品を売る店で働くことになり、やっと床に就けるようになった。ギブスンはそのころについて多くを語りたがらない。
ギブスンがもっているのはコラージュ作家のマインドだ。彼は「地表から掘り進めて、それまではつながっていなかった別の地表に向かう」のだと自分のことを描写する。
ギブスンはインターネットを「予見した」として評価されることが多かった。ギブスンは、オンラインでの生活について自分が打ち出したノワールなヴィジョンと黎明期のウェブには共通点がないのだと指摘した。ギブスンは、90年代まではあちこちに拡がっていただろう感覚──すべてが終わった後に情報に駆動された変化がくるという感覚──をつかんでいたのだ。
インターネットへのアクセスがどんどん簡単になるなかで、インターネットに時間を費やすことそれ自体にはそこまで興味をもてないことに、ギブスンは気づいた。しかし、インターネットに時間を使う人間には魅了された。そうした人々は、ウェブ上の資源を消費すればするほどに、ますますウェブに対して貪欲になるように見えた。インターネットだけが問題ではなかった。ギブスンの友人たちは、メディア一般に対してもっと注意を向けるようになっていた。
新しいテレビショーも関心を引いた。ある友人は、「全米警察24時 コップス」(リアリティショーで、容疑者を確保する警官をカメラクルーが全力で伴走して追いかける番組)のエピソードを見せてくれた。警察活動さえ、パフォーマンスとしてマネタイズされる。
彼は世界のハチャメチャ指数(FQ:Fuckedness Quotient)が上昇するのを感じた。
仮想世界の物語を紡ぐ代わりにギブスンは現実世界を観察した。ヴァンクーヴァーの近所の店頭の棚は奇妙にも空っぽになっていた。グローバル資本の大波を前に商品を引き上げた様は、まるで街そのものが未来を予見していたかのようだった。
ヴァンクーヴァーのダウンタウンの東側、1人あたりで見ると全国でも最も貧しい地区、絶対的に過酷な環境に置かれているんだ──そう、カナダ式の過酷さだ。依存、売春、路上犯罪」。
彼の考えでは、もっと多くの「隙間空間」が存在する。つまり、市民社会や経済の裂け目がどんどん拡がり、その裂け目に落ち込んでしまった場所が存在するのだ。
ロサンジェルスで、友人の運転するクルマで荒れ果てた街並みを走り、打ち捨てられたように見える建物にギブスンは向かった。その友人いわく、この建物はデニス・ホッパーの家で、壁の裏側には大金に値するアート作品があるという。ガードマンの数が急激に増加しているのを感じた。
彼はバイクメッセンジャー──鍛えられた肉体をもつパンクなプレカリアート(不安定な労働者)──が増えていることにも気づき、バイクメッセンジャーたちのジン(zine)を読み始めた。
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Zine
ギブスンの80年代の小説が、流動的な幻覚であるデータスフィアを想像し、つくりだすものだったとするならば、彼の90年代の小説──『ヴァーチャル・ライト』『あいどる』『フューチャーマチック』──は、それ自体が流動的な幻覚になった世界で展開していると言える。
小説の舞台は2000年代のカリフォルニアと東京だ。大地震でサンフランシスコのベイブリッジが使用不可能になったが、北カリフォルニアの政府にはそれを修復する予算がない。地震前からの住宅危機によって生み出されたホームレスや無断居住者が、ハイテク・ローテクを問わずさまざまな材料を使って──防水布、ベニヤ板、航空機のケーブルハーネス──、ベイブリッジの道路と塔をクールな宙ぶらりんの貧民街に変えた。
この世界ではメディアの集中砲火によって近い過去すら霞んでしまっている。テレビのニュース番組は逆調査報道、すなわちイデオロギー的に対立するニュース編集室についての報道を実践する。文化はグローバル化し高画質化する。ヴァーチャルな有名人が現実の有名人を置き換え、認知的反体制派(コグニティヴ・ディシデンツ)と呼ばれるバーでは、エヴァンジェリカルなイスラムバンド「クローム・コーラン」の音楽に合わせてパトロンが踊る。
ファッションも改良された。シェヴェットというバイクメッセンジャーは、「 襟にバーコード入りの古い馬革のジャンパー」を着ている。「ケルト風の結び目とアニメの稲妻を組みあわせた刺青タトゥー」を頭に彫る女性が現れる。ティーンエイジャーがクルマで前の助手席の椅子の背に足を載せ、「スニーカーのまわりについた小さな赤ランプがなにかの曲の歌詞を綴っている」。
ギブスンが知っている未来学者たちは、「シンギュラリティ」──人間がテクノロジーによって完全にトランスフォームされる瞬間──について語り始めた。ギブスンはその発想を評価しなかった。彼が試みたのは「中途半端なシンギュラリティ」の表現だ。劇的に変化するが、しかし変化の方向はでたらめだという世界。
「本質的に、我々は何かを完璧にこなすことなんてできない、そう感じられるんだ」と彼は語った。小説をどのように終わらせるか考えずに即興的に書き進めた(『フューチャーマチック』では、ギブスンに驚くほど似た身体的特徴を備えた暗殺者が道(タオ)に行動を導かれる)。
あるインタヴュアーに語ったところでは、ギブスンのフィクションは墓石の石摺りに似た「遺物」なのだという。この例え話で墓石に当たるのは、私達の現在だ。三部作のクライマックスでは、コンビニチェーンによるコンシューマー・ナノテクノロジーの理由のない導入が描かれる。そのテクノロジーは何をつくるためのものなのか、誰も知らない。
「なんてこった」という雰囲気が蔓延する。お店で子どもが「ドラッグの豆研究室みたいなこの日本のキャンデー」を買う。「べつべつの袋にはいったものをまぜると、泡が立って、熱くなって、それから冷める。押し出し成形の容器のなかでそうしといて、固まるまで待つ」。普通の味だが、その過程が楽しい。その一方で、ベイブリッジの一室──東塔の頂上、霧の上──では、シェヴェットが≪ナショナル・ジオグラフィックス≫のバックナンバーを読み、分裂する前のカナダがいかに大きかったかを知って感嘆する。
「雨が強くなってきたね」。わたしが到着したときにギブスンが言った。「きみはラッキーだよ。きみにぴったりなジャケットがあるんだ」。『ヴァーチャル・ライト』とその続編を書きながら、彼は自分のオブセッション──とりわけ衣服と、その記号論的な歴史に対するオブセッション──を利用することを学んだ。
そのとき、廊下から離れたほうのクローゼットにはギブスンのアクロニウムのコレクションがあった。長らくアクロニウムを追いかけてきたわたしは──自分では買っていないが、ほしいとは思っていた──、現実離れした過度な機能性を備えたジャケットに興味津々だった。
「エロルソンはこいつを『エスケープ・ジップ』と呼んでる」とギブスンは言いながら、ジャケットの肩についている珍しいジッパーを見せてくれた。そのジッパーを使うと下から手を通すことなく一瞬でジャケットを脱げる。やり方を見せてくれた。もうひとつのコートは丈が長く、名状しがたいグレイがかった緑色だ。魅惑的なまでに邪悪で、ギブスンの家で見たもののなかで、最もサイバーパンクだった。「この変わった膜は、ゴアテックスでできてるんだ」と指の間で生地をさすりながらギブスンは言った。片面は革のようで、もう片面は化学繊維のようだった。「エロルソンは名前をつけないうちにぼくにくれたんだ。一生懸命、名前を考えたよ」
ギブスンは言った。僕はこのジャケットを手に入れてうれしかったんだけど、着るのが難しくてね。機能的すぎるし、光を吸収しすぎる。彼は未来を身にまとうことを楽しみつつ、全身がコスプレみたいになってしまうことを恐れているようだった。
ギブスンは満足してジャケットをクローゼットに戻した。私達が梯子とバケツを下の階から持ってくるのを飼い猫のビグルスが踊り場から見ていた。先端的なテクノロジーを使ったファブリックと、雨漏りする屋根。これがリアルな未来だ。
ギブスンは未来を怖がっていたのだろうか? ギブスンは、明日が来るのを待ちながら現在を生きていた。その点では他の人と変わりがない。90年代の終わりに、彼はピラティスを始め、たばこをやめた。娘のクレアは近所に住んでいる。息子のグレームもだ。彼は自閉症で、サヴァン症候群のような卓越した技術をもち、何百もの楽器を演奏できる。グレームが安全な生活を営めるよう、ギブスンと妻のデボラは手助けしている。
上昇するFQをギブスンが気にかけるのには充分な理由がある。しかし、彼はこの懸念を自分の創作世界に閉じ込めることに成功している。ビルは頭の中で扉を閉めることができるんだと、彼の古い友人の一人であるジャック・ウォマックが言った。
「ギブスンは、何か決めなきゃいけないときにすべての要素を考慮に入れることができる人間だと、いつも感じているよ」とウォマックは続けた。「パラノイドに陥らないし、疑い深くもない。いいポーカープレイヤーなんだ。」近未来のサイエンス・フィクションを書くことはデタッチメントを要求するのだという。それは核兵器について知識をもって、冷戦の時代を生きるようなものだ。
しかし世紀の変わり目を迎えるころ、ギブスンはデタッチメントに対する満たされない思いを募らせていったようだ。『フューチャーマチック』が完結したとき、「少し落ち込んだ」のだと彼は言う。本がどうなったかというのではなくて、自分の経験についてなんだ........自分が前時代に属するような事をしているように感じ始めた。サイエンス・フィクションが、ジャンルごと古びていくことを危惧していた。
彼も確かに年をとっていた。50歳になり、認知行動療法を始めた。まだ直面していない幼年時代の経験の消化を期待しての事だ。その間、彼は言っていた。「すっかり変わった。窓の外の世界がフィクションのために考えた未来以上に、明らかに余所余所しく感じられた」
どうすればよいかはわからないままだったが、ギブスンは然るべきタイミングが来るのを待った。映画化オプション権が買われた『ニューロマンサー』のシナリオを書くために、何度もロンドンとの間を行き来した。eBayに時間を費やした。リアルな場所だと感じられたウェブサイトは初めてだった。たくさんの人がいて、たくさんのガラクタがあったからだろう。
eBayを通じて、腕時計に関するフォーラムをネット上で見つけ、ミリタリーウォッチに詳しくなった。廃盤になったオメガの部品を手に入れることができる、エジプトの問屋についても知った。フォーラムのメンバーであったおかげで、「G10」というウォッチストラップを入手した。元々1970年代に生産され、それ以降入手しづらくなったものだ。
限りない情報にアクセスできるようになると、人々は自分たちを全知だと思い込み始めることにギブスンは気づいた。彼は、フォーラムの政治的議論にも参加した。FQが上昇しているのを感じた。
オンライン世界の登場によって物理的な世界も変わっているとギブスンは思った。かつては、オンライン世界にアクセスするときにはどこか別の場所を訪ねるかのように感じられた。いまは、オンラインがデフォルトの状態だ。それこそが「ここ」と呼ぶに値する場所で、切断状態に置かれて落ち着かない「圏外」が「あそこ」である。ヴァンクーヴァーの銀行預金残高を、ロサンジェルスのATMで確認できるという事の不気味さにギブスンは衝撃を受けた。ランドスケープのどこにいようと、データスケープでは同じ場所にいることができる。サイバースペースが裏返っている、あるいはサイバースペースが「めくれ上がっている」ようだった──サイバースペースを囲んでいたはずの世界を、今度はサイバースペースが飲み込んでいるのだ。
ギブスンは日本で「オタク」という単語を学んだ。レーザー光線のように強い興味関心とオブセッションをもった人間を描写することに用いられる単語だ。ウェブの登場によって、どこでも誰でも同じようなオタク的オブセッションをもつことができるようになった。テレビでもコーヒーでもスニーカーでも銃でも、対象は何でもいい。こうした知識の可能性は、世界の上にヴェールのように覆いかぶさっている。
物理的対象は検索ワードにもなった。エスプレッソは、もはや単なるエスプレッソではない。クレマやフェアトレード、焙煎テクニック、豆の種類についてのウェブページと不可分になった。物はテキストになり、リアリティが増強された。より強い欲望を煽るために、いろいろなものについての知識がブランドストラテジストによって見直された。会社、場所、大統領、戦争、人々といったさまざまなものが誰かの有利になるように変えられた。まるで世界それ自体がプログラムし直せるかのようだった。経済的生活の主な推進力にもなってきたこのコンスタントな再プログラム化が、現在という時間を、ある感情──疲れのようでもあり時差ボケのようでもあり、喪失でもあるような──で満たしているようにギブスンには感じられた。
世界のコードが書き換えられるのがいかに唐突な事でありうるのか、その唐突さに彼は驚いた。「僕は自分の地下のオフィスにいたんだ。長い間見てきた腕時計のサイトを眺めていた」。
ギブスンは思い出す。「東海岸の誰かが、『ワールドトレードセンタービルに飛行機が衝突した』と投稿して、それをGoogleで検索したんだ。何も出なかった。コーヒーを飲みに行って、戻ってきたら別の投稿がその下に続いていた。『ふたつ目の飛行機が衝突した。これは事故ではない』と。この攻撃は、僕らが今まで世界に対して働かせていた予測を書換えた。生活が急に恐ろしいものになったよ。世界の時間性が調節されたみたいだった。
それ以降、出来事は早く推移するようになったんだ。機関車が来るのを画面で見る時代は終わった。スクリーンはもう無い──機関車が直接来るんだ」
『パターン・レコグニション』と、その続編『スプーク・カントリー』(2007年)と『Zero History(未邦訳)』(2010)は「サイエンス・フィクションであるための条件をすべて満たす世界を舞台にしているが、それでも、これはぼくたちの世界で起きた物語なんだ」とギブスンはかつて語った。
「われわれの祖父母たちには未来があったとか、未来があると思っていた、というような意味ではね」。このような「すみずみまで想像された文化的な未来」が可能なのは「“いま”という言葉がもっと長い期間を意味した」ころだけだった。
我々の場合は、言うまでもなく、あらゆるものが急激に、強烈に、かつ深刻に変化する可能性がある。祖父母達の考えていたような未来にするには、その立脚点を築きあげるだけの今が足りない。我々に未来がないのは我々の現在があまりにも流動的であるからだ。……われわれに残されたものは危機管理だけだ。与えられた瞬間のシナリオを紡ぐこと。パターン認識。
ハイパーコネクティッドなこの世界では、同じパターンが異なる表現で何度も繰り返される。同じさざ波がアジアにもヨーロッパにも、アートにもテクノロジーにも、戦争とテレビにも到達する。テロリストを捕らえることと、いま何がクールなのかを捉えることは、つながっている。
『Zero History』では、ファッションストラテジストが俗世間から離れたオタク・デニム・デザイナーを追って、秘密の武器商売人たちのパラレルワールドに迷い込む。秘密が「クールの根源なのだ」と登場人物のひとりが説明する。そしてきょうのクールさはわたしたちの現代の秘密から流れ出す──容疑者の秘密移送、スパイ、グアンタナモ収容所、PRISM。ミュージシャンが兵士のように装うことにも理由がある。芸術は戦略的なものになった。テロへの報復と文化は鏡写しだ。
ギブスンは、現在を扱ったSFに人々がどう反応するかわからなかった。小説の主人公ケイス・ポラードはハッカーではない。商業リサーチプロジェクトのためにヴァイラルマーケティング・シンクタンクに雇われたブランド・ストラテジストだ。ケイスはまばゆいデータスケープに近づかない。その代わりに、「ファッションの炉心での被曝」に苦しみ、記号論的な健康法を実践する。「CPU」すなわち「ケイス・ポラード・ユニッツ」──「黒か白、もしくはグレー」で「一九四五年から二〇〇〇年までのどの年でも、なんの説明もなしに着られる」服──だけを身に着ける。
ケイスはバズ・リクソンズのMA-1ボマージャケットを特に大事にしている。バズ・リクソンズは、ミッドセンチュリーの米軍服を入念に再現している日本の会社だ。『パターン・レコグニション』のMA-1は、『ニューロマンサー』のサイバースペース・デッキに当たる。「生きた無デザイン地帯であり、その禁欲性がかえって周期的に独自のカルトを生み出しかねない」。MA-1が、ケイスが世界にトンネルを掘って進むことを助ける。ほぼ歴史的な工芸品である──リアルであってもファッションではない──というまさにその理由で、ジャケットのコードは書き換えられることがない。それはコードの根源(ソースコード)なのだ。
小説についてのギブスンの心配は杞憂に終わった。この小説はカルト的な人気を集めた。バズリクソンズは東京にある実際の会社だ。この会社は、軍事的・歴史的な正確性を重んじるというポリシーから、本物以外は製造しない。1950年代後半から20年間ほど生産されていた本物のMA-1フライトジャケットの色はセージグリーンだった。しかし、『パターン・レコグニション』の出版後、ブラックヴァージョンを買いたいとバズリクソンズにメールする顧客が現れるようになった。バズリクソンズは例外を設け、ギブスンとコラボレーションしてブラックのMA-1を生産した。一部サークルではこれがすぐにアイコニックなものになった。
注意深く再現してつくられたミッドセンチュリーのナイロン素材のジャケットは、アンティークでもあり未来的でもあった。今は「バズリクソンズ×ウィリアム・ギブスン」というラインがある。
また、『パターン・レコグニション』のあとの10年間、小説に出てくるものをモデルに作られたマーケティングシンクタンクK-HOLEは、ケイスのファッション哲学を「ノームコア」というかたちで一般的なものにした。予見されただけの処から始まって、ついに実現に至ったこのトレンドは、情報を踏まえたうえで意図的に虚無を選び取るという考えに基づいている。
ノームコアはより広くデザインに影響を及ぼし、エヴァーレーンやユニクロといった企業の美学を形づくった。フィクションと現実の境界は、ギブスンが考えていたより曖昧だった。彼は自分の手でコードを書き換えてしまった。
キャリアの初期、ギブスンは奇妙にも、もっともらしく見える未来の発展を想像したことで称賛されていた。「フラクタル・ナイフ」という、見た目より長い刃を隠しもったナイフ。「マイクロ・バチェラー」という、サンタモニカの改良された立体駐車場つきのアパートメント。
いまでは方向が逆になった。今日では、ギブスンの方が、Twitterのフォロワーにサイエンス・フィクションらしい現在の事態をシェアしてもらっている。チリの抗議者がレーザーポインターを警察のドローンを撃落とすために使う。日本のアイドルは写真の中の瞳に映った景色を利用したストーカーに家まで追いかけられる。(毎日の何気ない生活も、ギブスン的でありうるのだ。ツイードのブレザーと迷彩柄のパラシュートパンツの女性が、地下鉄に乗る。子どもはダンスを「フォートナイト」から学ぶ)。
『Agency』では、オタク・コーヒーショップの客が、他の人のノートパソコンに映った無声ニュースを観る。「ヒューストンを襲っているハリケーンでないとすれば」と彼女は考える。「メキシコの地震か、プエルトリコを壊滅させてるハリケーンか、カリフォルニアの歴史で最悪の山火事か。あるいはそれはカーミシュリーか」。小説が出版される前に、見本本の読者は、トルコとシリアの国境の街カーミシュリーでの戦闘がいまや現実になったことを指摘している。
エミリー・シーガルはケイス・ポラードに影響を受けた、K-HOLEの創設者の一人であり、オルタナティヴなブランディングとトレンド予測を行なうコンサルタント会社、ネメシス(Nemesis)をベルリンで経営している。新しいものが完全に新しいのだと考えてしまう罠にはまるのは容易なのだと彼女は言う。ギブスンは、対照的に、「まったく別のものを探している──特別に新しいわけではないが、スペシャルなものとして突然目立ち始めることになるようなものを」
変化する世界は「今まで見たことがない」という形ではなく、「再発見される」という形で現れる。「未来を予測できるだろうと人々や会社に期待される立場に置かれたと考えてみて。そうすれば、それはなんてばかげた事業なんだろうと、わかる」と彼女は続ける。「でも直感はリアルなの。テキストや芸術作品もそれ自体の生命をもつようになるし、テクノロジーもまた生命をもつように感じられる。そういうときは、自分が未来を見ているかのように感じられる。そう、そうやって歴史に参加することになるんですよ」
ヴァンクーヴァーで夜ご飯のために友人と会った。スタイリッシュな古い街角、ギャスタウンでお互いを見つけ、彼女が行ってみたいというレストランを探して東の方に歩き始めた。そのうち、いつまでも歩き続けているような気になってきた。通りの番号を調べてスマートフォンに入力した。わたしを示す青い点がグリッドの中を動いていた。ギブスンがカナダ式の過酷さについてなんて言っていたか、ショッピングカートを押す人がわたしの目の前を通るまで忘れていた。レストランの向こう側、夕闇にテントが寄り集まって街をなしている。私たちがいたのは、そんな場所だった。
その後、といってもそんなに時間は経っていないのだが、ギブスンがニューヨークを訪れた。チェルシー・マーケットの、ユーチューブのオフィスへとつながるロゴつきのエレベーターのそばのカウンターで、コーヒーを一緒に飲んだ。ハイテク展示スペースであるアーテックハウスに入った。トルコ出身のアーティスト、レフィク・アナドルによるヴィデオ・インスタレーション作品「マシーン・ハルシネーションを見るためだ。
インスタレーションはデータが隅々まで浸透したスマートな大都市を想起させるものだった。すべての表面がスクリーンであるかのように、コンピューターで生成されたイメージが、大きい地下室の床と壁で波打ち、泳ぎ回る。人々はお喋りする代わりに──シンセサイザーによるサウンドトラックが流れるなかで会話するのは不可能だ──スマートフォンから動画を投稿していた。
ギブスンは袖が黒いセージグリーンのMA-1──歴史的ではない実験的なモデル──を着てウールのベースボールキャップをかぶっていた。数十年前の『ニューロマンサー』のサイバースペースを思い起こさせる、鮮烈で幾何学的なイメージが照明されている柱に、彼は寄りかかっていた。イメージが変わった。手の平サイズの画素がカラフルなレイヤーを形成し、ニューラルネットワーク時代のサイバースペースを点描で表現していた。ギブスンは共感するように微笑んだ。デジタルワールドにふさわしい視覚的なメタファーを新しく発明することは難しい。
「マシーン・ハルシネーション」を出るためには、コンピューターによって生成された画像で輝くフロアを、横切らなければいけない。あるドアへ、また別のドアへ、そしてまた別のドアへ──本当の出口を見つけてロビーへと抜けるまで、めまいがするほど歩き回った。
「なんてこった!」 ギブスンは感嘆して言った。「サイバースペースのカウボーイ達は、毎日こんなことをしているのか!」
チェルシーマーケットのレトロなブランド──チーズマンガーやホット・ソース・エンポリアム──が、それぞれに、固有のデザイン言語を使ってわたしたちを取り囲んでいた。ネオン、クローム、ビニール。昔のニューヨークの歴史を語るタイポ・グラフィーだ。まるで、ギブスンの小説のひとつから出てきて、また別の小説の世界へと入り込んでしまったようだった。
「どっちに行こうか?」ギブスンが尋ねた。
「たぶんこっちだ」。わたしはそう言って、オーストラリア・ミートパイ専門店を指さした。
「方向を間違えたらユーチューブの本社に着いちゃうよね」。ギブスンは考え込んだ。「そうしたら絶対に出られないよ、絶対に! フェイスブックが悪いときみは思うかい? このユーチューブってやつは……本当にクソさ」
タクシーを呼び、ギブスンお気に入りのソーホーのフレンチ・ビストロ、「ラッキーストライク」に向かった。後部座席で彼の隣に座り、彼の最近の小説がもつ驚くべき優しさについて考えていた。『Agency』では、かつてのギブスンのように、自宅で働いている男が赤ん坊の面倒を見ていた。
ギブスンが、かつて私に語ったところでは、赤ん坊というのは仕事と私生活を隔てる防御膜だった。彼はプロとして、自分や自分の子どもたちの人生を描くことなしに、未来を考えることができるようになった。
人によっては、あるいは時によっては、否認のおかげで身を守れる事もある。そんなんでおまえは、どうやって今までうまくやってきた? 信頼できるやつはそう言うだろうな。そもそも防御しなきゃならないような事態は起きてないってと、彼は続けた。
ぼくが大切にしていた防御膜は、トランプ当選の翌朝まではあったのに、朝起きたらなくなってしまっていたんだよ。それがなんであれ、なくなってしまったんだ。もう二度と戻っちゃこないさ。
「いちばん落ち着かないのは、雰囲気がどうなるのかを何度か想像しようとしてみたけど、できないということなんだ。」とギブスンは言った。
もしぼくらが何事にも魔法がかかったように幸運で、Brexitもドナルド・トランプもそれ以外も、最大限ましなかたちで事態が推移したとしても、また何か起きるかもしれないよね。
この雰囲気の強度と安定性が示されたとしても、そしてもっと示されたとしても、雰囲気を想像しようとすると、心が凍ってしまうんだよ。
本当に気が滅入る。彼はひと呼吸置いた。受け入れようと努力してきたんだ、個人的にはね。そうしたら、それでもやっぱり無理なんじゃないかと思い始めた。
ウォマックはうなずいた。「ぼくの娘は16歳と半年だ」と、彼は話し始めた。「60年後には70代半ばになる。その時に、この世界がどうなっているのか、まったく想像もつかない。どんな変化が起きるのかも」
「完璧に新しいものになるだろうね」。ギブスンは言った。「本当に新しいものに」。彼は部屋の方へと目線を外した。サウンドシステムから別の曲がかかる。白熱光が鏡に映って輝いた。丸い眼鏡の若い女性がイスの背もたれに寄りかかった。突然、私達はみな、過去に生きているのだと感じられた。
『ニューロマンサー』からの30年。サイバーパンクは現実を先取りした 2014.09.20
ニューロマンサーから30年がすぎた。今、我々は、まだ世の中の大部分がアナログだった時代に書かれた“直観”のうち、何が未来を告げていたかを知ることができる。
ウィリアム・ギブソンが牽引したサイバーパンクは、われわれのイメジャリーに強く影響を与えている。そしてそれはおそらく、描かれた想像図と現実の姿の間に大きな差異がないからだ。
これは何も、Tシャツやポスター、その他ガジェットの話ではない。ポップカルチャーの領域外の、社会的影響に関するものだ。しばしばウェブ上で目にする陰謀論的なパラノイアの多く(例えば『皮下に埋め込まれたマイクロチップ』がそうだ)は、おそらくはギブソンの悪夢の、『マトリックス』を経由した“従兄弟”なのではないか?
ギブソンが描き今、現実に確認される大きな歴史的傾向として、次の4つが挙げられる。(1)メガロポリスの発展 、(2)次第に中心的になってくる多国籍企業の役割 、(3)インターネット革命 、(4)人間と機械の間の相互作用の増加 、だ。
彼が都市工学や地政学、コミュニケーションやバイオテクノロジーにおいてここ数十年の革新を整理しまとめた明晰さには、ほとんど息をのむばかりだ。
ポスト工業社会の風景を見るには、無人機が空撮した、デトロイトの美しい廃墟。コンピューター詐欺は日常茶飯事。多くの多国籍企業の売上は、中規模程度の国のGDP水準に。
ヴァーチャル・リアリティはまだ定着してはいないけれども、わたしたちはこうしてサイバー空間に没頭している。
これほどまでに時代の精神に近い(正確には一歩先だ)作品の影響を、単に集団的イメジャリーに貢献したと矮小化させる事はできないのは当然だ。
問題はおそらく、ギブソンが我々の心をとらえすぎた事にある。彼はまず、あまりに多くの神経をむき出しにして、それからそこに触れた。
30年が経ち、すでに「古い」ものとなった『ニューロマンサー』を読んでみる。故意にゆがめられているにしても、私たちが過去に体験し、あるいはいま体験している事柄が反映されているのを見出すのは、非常に奇妙な感じがする。
さらに、当時ギブソンによって喚起された不安が、現実の人々によって、現実の世界において再現されているのを見るのは、ある種の文化的ショックを生み出す。まるで、現実でも、物語に浸透しているニヒリズムに人間が屈したかのようである。
サイバーパンクを研究しよう。どこからやって来たのか、それだけでなく、どこに行こうとしているかについて語ることができることを知るために。この作品を現実を見る鏡にするのではなく、それに対抗する解毒薬として利用することを試みよう。