アメリカの変貌を加速させる〈殉教者〉 2025.10.10
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https://wired.jp/article/american-doppelganger-5/ #池田純一 チャーリー・カーク
911の同時多発テロ事件記念日を控えた2025年9月10日、アメリカは大きな転換点を迎えた。その日、ユタ・ヴァリー大学で講演会を開いていた若手保守派の旗手であるチャーリー・カークが講演の最中に銃殺された。
その日を境にトランプ2.0は左派追撃に断固として臨むようになった。
以後、トランプ政権は何をするにもカークの弔い合戦のような空気をまとわせている。アメリカの左派=民主党を公然と敵認定し、その殲滅に向けて今まで以上に容赦なく権力を振るい始めた。
9月10日はトランプ2.0を再進撃に向かわせる分岐点となったのだ。
実のところ、8月のトランプ2.0はトラブルの兆候に見舞われていた。エプスタイン・ファイルの公開を求めるMAGA急進派との小競り合いによって虚を付かれたり、ウクライナ戦争の停戦を求めて急遽アラスカ州アンカレッジでトランプ - プーチン会談を実現させたもののプーチン大統領からは停戦に向けた色よい反応を得ることができなかったりと、トランプ大統領にとって思い通りにならないことが続いた。味方と思っていたMAGAからも、盟友と信じていたプーチン大統領からも、ともに袖にされた感じで、さすがのトランプも不満を隠すことができなくなっていた。
そのようなトランプ2.0に停滞感が漂い始めた頃に、青天の霹靂のように生じたのがチャーリー・カークの殺害事件だった。
事件後に多く報道されていたように、死亡したカークは、ターニング・ポイントUSAという若者向けの右派活動の創設者だった。全米800以上の大学に支部を持つこの組織は、GenZ(Z世代)の右傾化を促し、2024年大統領選ではトランプの勝利に大きく貢献した。ヴァンス副大統領も、全く政治経験のない新人候補として臨んだ2022年のオハイオ州の上院議員選で、カークのターニング・ポイントUSAから多大な支援を受けていた。
ヴァンスにとってカークは政治家への道を開いてくれた恩人のひとりだった。それもあって、カーク殺害の報に際して、誰よりも深刻な面持ちで会見をしていたのがヴァンスだった。
チャーリー・カークの成功は、若者の政治的不安を言語化し明瞭化する事で成し遂げられた。生活の向上を阻む経済的停滞、公約に応えない政治家にうんざりして生まれる政府への不信感、これらの結果、特に男性を圧迫する男らしさのゆらぎに根ざした自信の喪失や帰属意識の危機。こうした、かつて約束されていたはずの進歩が疑問視される風潮をカークは、国家の衰退と保守派の復活というナラティブに置き換え、若者の焦燥に具体的な形を与え、憤りを表明する場を設けた。
カークがターニング・ポイントUSAを設立したのは2012年だったが、早くも2016年の共和党全国大会では最年少の23歳の講演者として登壇していた。トランプの台頭に呼応するように、カークの運動も全米に浸透していった。
経済の停滞、守旧派の残留、そのくせ、老人の世話を押し付けてくる政治家たち。それを含めての、老人支配への鬱憤。バイデンの再選狙いが醜聞に終わったことには、こうした背景もあった。むしろ、格好の憎むべき老害の典型と枠付けられた。もちろん、バイデンが、バーニー・サンダースのように老いても矍鑠たる姿で現れていれば別だったのだろうが。民主党の選挙実務家が見過ごした、あるいは手を付けることのできなかった若者の心情にかかわるブラインドスポットに見事に手を付けたのが同世代のカークだった。
そうして、若者が抱く疎外感に応えた。民主党も共和党も、本当のところ、自分たちを見てはいないという若者たちの直感を掬い上げた。そうでもなければ創立10年余りで、全米各地の大学に800を超える組織を作ることは難しかったことだろう。
カークは、自ら今の政治の問題とその処方箋についてソーシャルメディア上で語るインフルエンサーであり、若者に向けて政治的な発言や行動の機会を与える組織インフラを全米に設けた活動家だった。いいかえれば、ターニング・ポイントUSAは、将来の保守派政治家・活動家の養成所であり育成機だった。カークのもとを巣立ち、各地で政治や社会運動で活躍する「卒業生」たちもすでに現れている。このネットワーク機構のハブがカークだった。彼は人材ネットワークの中心に位置し、トランプ2.0の政権内人事にも関わっていたという。
したがって、カークの死はMAGA運動の精神的支柱の喪失を意味する。だからだろうか、カークの殺害は、私的憤りに基づく単独犯ではなく、「奴ら(彼ら)」という言葉を使いながら、左翼や進歩主義者たちが裏で糸を引く組織的な陰謀だったとみなす人たちが絶えない。その筆頭がヴァンスというわけだ。
死は、追悼という形で、残された人たちに「称賛」と「それ以外」のメモリアルを強いる。生前のように「曖昧」な立場は取りにくい。強い感情とともに記憶されることを求める。チャーリー・カークについても、その力学が働いている。その動きをトランプ2.0は見逃さなかった。9月21日にアリゾナで、10万人の観客を動員できるスタジアムで行われたカーク追悼式は、カークを「殉教者」として称えるMAGAラリーへと転じた。
もっともカークを殉教者扱いすることはそれほど無茶なことではなかった。彼自身、キリスト教右派の立場から、LGBTQ+や中絶について糾弾することも少なくなかった。左派からはそれらが批判されていた。だから、彼の殺害容疑で逮捕されたタイラー・ロビンソンという青年にトランスジェンダーの恋人がいたと報道された時は、十分納得できる文脈がカークにはあった。もちろん、右派はそれを理由に左派を頑なに敵視するようになったのではあるが。
ともあれ、このようにカークは、2010年代以降のアメリカの、ソーシャルメディアによる「結集」の時代の中、自ら進んで居所を築いた右派活動家だった。彼もまた時代の息吹を受けた社会起業家のひとりだった。
それゆえカークの殺害事件を、右派版の「ジョージ・フロイド事件」にまで昇華させたいと願望を抱くものも出てきた。カークを時代の象徴として祭り上げるためだ。
2020年に起こったジョージ・フロイド事件が、単なる不良警官による黒人市民の殺害では終わらなかったのは、事件直後から、その惨状を、より大きな社会的な構造的問題、すなわち警察組織における人種差別の容認という構造的問題の被害者として位置づける動きが起こったためだ。その結果、BLM運動に火がつき、多くの企業や大学、政府機関、各種組織までもが同調する動きを示した。
つまり、ジョージ・フロイドの死は、ただの死ではなく、範例性のある象徴的な死、すなわち悲劇とみなされた。同様の「社会的想像力」を、今回のカークの訃報に接してMAGAの賛同者たちも抱いたようだ。だからヴァンスのように、「過激な左翼」の糾弾を叫ぶものが続出する。そこから陰謀論へなだれ込むのはたやすい。左派による「構造的問題」が背後にあったために殺害事件に至ったという解釈だ。その点がトランプとヴァンスの姿勢の違いでもある。
トランプは、端的に、良き協力者の一人が亡くなったと捉え、これを梃子にして左派を糾弾する空気に変え、エプスタインやプーチンのような、8月にトランプを煩わせた、厄介な話から目をそらさせるために活用しようとしている。そのせいか、思いの外、冷めた態度を示している。
一方、ヴァンスは、カークからもらった恩義があるため、より直接的に彼の偉業を称え、むしろこの死を無駄にしないよう声も荒げ、右派を勢いづけるべくこの機会に左派の糾弾に熱を上げている。
というのも、ヴァンスはカークに大きな恩があるからだ。2016年時点ではリベラル側に立ち、トランプ批判の論考をリベラルな『アトランティック』誌で発表していたにもかかわらず、ヴァンスがトランプ陣営に迎えられるようになった背景には、カークがトランプの長男であるドン・ジュニアに、ヴァンスの右派への転向の事実を告げ、トランプ本人への取り次ぎをもちかえたことがあったからだという。であれば、今、ヴァンスが副大統領でいられるのも、もとをたどればカークのおかげ、ということになる。そのため、ヴァンスによる「左派憎し!」の言葉も自然とエスカレートしていく。
かくしてカーク殺害事件によって、8月末に見られたMAGA内部の小競り合いの空気は一気に吹き飛んだ。代わりにMAGA再集結の動きが加速した。
実際、最高裁や連邦議会が夏の休暇に入っていた8月以降のトランプ2.0の動きをトータルで見ていれば、カーク殺害事件について、そのように思わないわけにはいかない。この事件はトランプ2.0の全活動に活力を与えた。
それはトランプ本人だけでなく、それ以上に、彼を周囲で支えるホワイトハウスのスタッフや閣僚たちの士気を高めたように見える。カークの殺害事件をきっかけにトランプ2.0を支える取り巻き全体で、トランプの進める「権威主義的」な政策を推し進めることに躊躇がなくなった。恐る恐るやっているという空気が消えた。むしろ、トランプよりもスタッフや閣僚たちの方こそ、不退転の決意でトランプ2.0のアジェンダに取り組み始めた。それくらい9月10日は分水嶺となった。カーク殺害という事件は、特にパム・ボンディ司法長官やカッシュ・パテルFBI長官など司法周りの高官たちの背中を強く押したように思われる。
そうして「政敵への攻撃」が本格化した。具体的には、ジミー・キンメルのコメディショーの無期限停止であり、ジェイムズ・コミー元FBI長官の起訴である。
前者は、憲法修正第一条に定められた「言論の自由」や「表現の自由」の侵害として瞬く間に全米を飲み込む論議となり、政治家だけでなくハリウッド・セレブも巻き込んで抗議の声が多数上げられた。ついには、共和党の中からも疑問視する政治家が現れ、その結果、キンメルの番組復帰で一段落を得た。
後者については、トランプが政敵認定したリストに応じてパム・ボンディ司法長官が起訴を進めた最初のケースとなった。リストには、ヒラリー・クリントンやジョー・バイデン、カマラ・ハリスにアダム・シフなどの民主党政治家だけでなく、ジョージ・ソロスやリード・ホフマンなど民主党支援者の名前も挙がっているという。
いずれも今後のトランプ2.0の行く末を占う上で無視できない事件だが、今回はまず、前者のキンメル事件について取り上げておきたい。アメリカン・ヴァリュー(アメリカの価値観)の根幹である「表現の自由」を巡る一大事となったからだ。
きっかけは、連邦通信委員会(FCC)のブレンダン・カー委員長が、テレビ出演中に行った、彼の目にはカークを侮辱するように映ったキンメル発言への非難、ならびに、その放送を認めたABCに対する不満の表明だった。これは、放送免許の更新審査にも影響を与えるかもしれないという含みから、テレビ業界に対する脅迫や恫喝と見られても仕方のない発言だった。
従来のFCC委員長の行動基準にあてはめれば、「表現の自由」を阻害する萎縮効果となる点で行き過ぎと思われてもやむを得ないものだった。事実、この発言後、FCCの3人の委員のうち唯一民主党員であるアナ・ゴメス委員から、カー委員長の発言を「表現の自由」を損ねるものでありFCC委員長の権限を超えたものだ、という非難が浴びせられていた。
ここで、今回のFCCの振る舞いが、いかに従来の慣習から逸脱しているか、理解を促すために、いくつかアメリカのテレビ業界の構造について説明しておきたい。今回の一件が、トランプ2.0が進める「主流メディア・バッシング」の一環でもあることを理解する上で役立つと思われるからだ。
まずFCCについてだが、この行政機関は、公共財である周波数を管理する立場から、放送(テレビとラジオ)の周波数利用ライセンスの審査権限を有している。
FCCの意思決定は、委員長を含む3人の委員から構成される委員会の判断でなされるが、委員の指名は大統領が行い、承認は上院が担う。慣例では、委員長は大統領と同じ政党員から選ばれ、3人中2名が大統領と同一政党、1名が大統領とは異なる政党員から選出される。そうして委員会の多数派も大統領と同じ政党となる。
ただし、FCCはいわゆる「独立行政委員会」の一つであり、議会によって制定され、議会に対して報告義務を持つ。つまり「独立」とは「大統領府からの独立」、すなわち大統領から直接指図を受けないことを意味している。いいかえれば「独立行政委員会」には大統領の干渉を受けずに裁判所のように中立的な立場から監督権限を行使することが期待されている。その独立行政委員会であるFCCの委員長が、この場合、逐一大統領の意向を忖度して、監督対象である放送業界に圧力をかけるのであるから、問題視されても仕方がないわけだ。
つまり、この大統領にベッタリのFCCのあり方も、トランプ2.0の青図である『プロジェクト2025』を用意したヘリテージ財団が望む、大統領がすべての行政権限を統括する「単一執行府理論(Unitary executive theory)」の実践のひとつなのである。カー委員長自身が、『プロジェクト2025』の通信行政部分の執筆者であるのだから、当然と言えば当然のことなのだが。それゆえ、彼は今後も頑なに放送局への圧力を高めていくことだろう。
次にFCCに監督される側のテレビ業界の構造について触れると、アメリカに特徴的なのは、全米各地の放送局(と言う名の事業会社)を複数束ねて所有する「親会社」となる企業が存在することだ。今回のキンメル事件においても、問題となったジミー・キンメルが出演する『Jimmy Kimmel Live!』の放送停止を真っ先に検討したのは、そうしたローカルの放送局(=放送免許会社)を複数所有するネクスターとシンクレアの2社だった。この「ライセンスされた放送電波を発信する施設をもつ会社」を所有する親会社が、カーFCC委員長の「ライセンス停止も辞さない」と示唆する発言に恐れ慄き、『Jimmy Kimmel Live!』の製作・供給を行う「ネットワーク」会社ABCに圧力をかけ、その結果、番組の「無期限停止」の判断がくだされた、というわけだ。
ニューヨークやロサンゼルスなど全米各地に所在するテレビ局は、通常、制作をするのは地元のニュースくらいでしかなく、その他の娯楽系のドラマやトークショーなどの番組は、加盟する「ネットワーク」から供給を受けて放送する。代わりにローカル局はネットワークに対して地元の視聴者の「アイボール=アテンション」を提供することで広告販売の機会を与える。もちろん、ローカル局も広告収入の配分を得る。したがって、ネットスターのようなテレビ局所有企業からすると、個々のローカル局とは電波のライセンスがなければ何の売上も立たず即破産である。だからこそ、カー委員長の発言が恫喝に聞こえてしまう。
この構造をネットワーク各社(ABC、NBC、CBS、Fox)の側から見直すと、番組供給先のテレビ局は2つに大別される。ネットワークが直接所有する「直営局」と、ネクスターやシンクレアのようなネットワークとは異なるオーナー企業が支配する「加盟局」である。加盟局にとって、ネットワークはあくまでもビジネス上の提携関係に過ぎず、所有関係にはない。
現在、全米の約4割のローカル局が、ネクスターとシンクレア、それにグレイという企業を加えた3大企業グループによって所有されている。そのため、彼らはニューヨークに拠点を持つネットワーク各社(ABC、NBC、CBS、Fox)に対して強い交渉力を持つことになる。その結果、今回、キンメルの番組が停止されることになった。表現の自由は、放送ライセンスの前に脆くも崩れ去ったのである。
とまれ、アメリカのテレビ業界についての補足はこれくらいにして本題に戻ろう。
今回の一件では、FCC委員長からの糾弾はあったものの、肝心の番組停止理由となったジミー・キンメルの発言は基本的に、チャーリー・カークの死を、保守派や共和党が政治的に利用しようとしている、と指摘した程度のものだった。
確かに、そのような発言は、今現在、喪に服している遺族や親しくしていた人たちからすれば、不謹慎のそしりは免れないかもしれない。トランプの不満も基本的には友人に対する中傷と捉えたことにある。
その一方で、ターニング・ポイントUSAの創業者としてチャーリー・カークがトランプを筆頭に共和党の政治家の選挙戦に深く関与し貢献したことは周知の事実であり、その意味で彼が今日のアメリカ政界を構成する公人=パブリック・フィギュアであったことは間違いない。
そのような公人を巡る政治的力学について、喪に服しているときだからこそ、あえて皆が口にしたがらない事実に触れる。そうして事件の本質について風刺や皮肉に包んで指摘するのが、テレビ報道において政治風刺を任されたコメディショーの役割である。
その点でコメディアンの発言は、アメリカ憲法修正第一条に記された「言論の自由(Freedom of speech)」や「表現の自由(Freedom of expression)」として保障されたものである。なんなら、そのような風刺的発言をきっかけに、日頃カークの言動に批判的な態度をとってきた人たち──端的に言えばリベラル──がオンラインかオフラインか問わず交流し合う様子は、「集会の自由(Freedom of assembly)」として保障されているといってもよいだろう。
いずれにせよ、批判的な発言自体が、公式に否定される類のものではないことは、トランプ2.0以前であれば、当たり前のことと思われていた。たとえ政治家がそのような発言に歯ぎしりしていたとしてもだ。
ところが、今回のカーク殺害事件については、キンメル事件が起こる前からすでに、カークに対して否定的なコメントをSNSにアップしたことで、雇用主から解雇を言い渡されるケースが全米で確認されていた。トランプの発言による萎縮効果がアメリカ社会に浸透しつつあるといったところか。その究極版としてキンメル事件を位置づけることもできる。
キンメルの番組の放送停止については、この手の人権侵害に対して敏感なACLU(American Civil Liberties Union:アメリカ自由人権協会)が即座に動き、それに500人を超えるハリウッドの俳優や監督、脚本家、更にミュージシャンやインフルエンサーも合流し、キンメル降板を違憲でおよそ「アメリカ的でない」と反対の声明を上げた。
なかには、今後、ディズニー・ABCとは仕事をしないと宣言する人たちもでてきた。反対の声を上げた中には、アリアナ・グランデ、ロン・ハワード、サラ・ジェシカ・パーカー、ショーン・ペン、ライアン・レイノルズ、バーバラ・ストライサンド、チャイニング・テイタムなどの名が見られた。
ACLUとハリウッドリベラルの連携による反対運動という、まさに東海岸と西海岸のリベラルが結託して言論弾圧の危機に立ち向かった。なぜなら、これを前例として業界内で確立されてしまえば、今後、俳優や映画監督、脚本家、あるいはミュージシャンなど、いわゆる「創作者」たちの間で、政権の顔色を伺う「萎縮効果」が当たり前になってしまう。それだけは避けなければ、というのが、今回の反対運動にはあった。
興味深いことに反対発言は、民主党系のリベラルだけでなく、共和党の内部からも起こった。なぜなら、「表現の自由」の擁護は2010年代以降、むしろ右派こそが強調してきたことだからだ。
「表現の自由」については、過去10年ほどの間は、保守派の言説が主流メディアで抑圧されているという訴えから、保守派活動家や共和党の政治家が、擁護に回ることが多かった。その典型が、「表現の自由・絶対守るマン」を自称したイーロン・マスクであることはわざわざ言うまでもないだろう。
そのような右派の活動家や政治家からすれば、いくらチャーリー・カーク殺害事件が、政治的には右派にとってのカンフル剤になるとはいえ、その勢いで、大統領が気に入らない発言に対して、FCC委員長が恫喝し、放送局の所有者たちに忖度させ自主規制に向かわせるのは、事実上の「言論弾圧」、「政府による検閲」にあたり、これまで保守派の自分たちが主張してきた「表現の自由」の守護、という大義にもとってしまう、そう判断せざるを得ない。
たとえば、共和党内のリバタリアンのまとめ役であるランド・ポール上院議員は当初から反対の意向を示していた。
だが、どうやら事態を動かしたのは、テッド・クルーズ上院議員(テキサス)の発言で、トランプ派やMAGAの増長に、共和党として線を引くことになった。共和党内部でも十分な反論があると判断し、ABCの親会社であるディズニーは、キンメルの復活を公表し、キンメルがホストを務める『Jimmy Kimmel Live!』を9月23日の夜から復活させた。キンメルの番組停止は6日間で終わった。もっとも、主要地区の放送局を複数所有する企業であるネクスターとシンクレアのように、キンメルの番組の放送を見送ることを決めたところもあり、キンメルの完全復活にはさらに数日を要したのだが。
終わってみれば、この無期停止は、わずか6日間で済んだわけだが、それも迅速な反対が起こったからこそだった。しかも、共和党の中にも不協和音が生じ、テッド・クルーズやランド・ポールのように、ブレンダン・カーの振る舞いをFCC委員長として不適切であると断じる者も現れた。共和党の上院議員たちからすれば、表現の自由への制約を「共和党が行った」という事実が残ることは、彼らの政治生命を損なう致命的な出来事だと感じたようだ。遂には、あのジョー・ローガンですら反対声明を行った。
YouTubeやポッドキャスティング、あるいはTikTokといったソーシャルメディアを拠点にしたインフルエンサーは主流メディアに対抗する「オルタナティブメディア」として、2024年大統領選でその存在感を大いに示したが、彼らは、そうしたソーシャルメディアが用意したインフラの上で活躍する個人であり、政府権力が本気になって潰しに来たときに、極めて脆弱で、貧弱な防衛しかできない。彼らが、一個人として小回りの聞く、機動力のある発言を、政治状況に応じて行うことができるのも、表現の自由に守られているからだ。その建前の下で、ときに「ヘイト」まがいの辛辣な発言も流すことができる。
もしかしたらトランプは、いや俺には自前のTruth Socialがあるから問題なし!と思っているのかもしれない。だが、多くの共和党政治家は、外部のメディアを活用するしかない。とすれば、ソーシャルメディアの存続のためには、政府が検閲まがいのことをするのはやめさせないと、せっかくの「拡声器」を失ってしまうことになりかねない。
ともあれ、キンメル事件については、共和党の中にも、この先の長い政治活動を見据えて、反対を唱える人たちが出てきた。期せずして「非MAGA」の共和党政治家がかろうじて存続していることを知らしめることにつながった。
こうしてひとまず、キンメル降板事件については事なきを得たわけだが、しかし、先述のように、ことの発端であるチャーリー・カーク殺害事件から発した「トランプ2.0の抵抗勢力への粛清」については、コミー元FBI長官の起訴を皮切りに始まっている。
このことについては、次回以降、事態が動いたときに取り上げていきたい。いずれにせよ、カーク殺害事件がトランプ2.0に起こした衝撃は計り知れない。「ラディカル・レフト」に対する攻勢は、トランプの敵対者への訴追だけでなく、ロサンゼルスやシカゴ、ポートランドなど、民主党優位の「ブルー・ステイト」や「ブルー・シティ」への州軍配備による治安維持活動への大統領令による介入にも見られる。カークの死は、今後、こうしたトランプ2.0の成果如何によって、どのようにアメリカ史において記憶されるかも変わってくるのだろう。
カークの追悼式で、未亡人のエリカ・カークは、キリスト教の教えに従い、殺害者を「赦す」と公言した。
だが、その直後、トランプはそれだけは賛成できないと、わざわざ最後のスピーチで切り出した。この点は、生前のチャーリーとも合意できなかったという。トランプが主導する「チャーリー・カークの弔い合戦」は、果たして当の故人の望む形で決着するのだろうか。静かにトランプと亡きチャーリーの間で「アメリカン・ヴァリュー」を巡る争いが始まった。
願わくは、アメリカの人びとがその事実をいつまでも忘れないでいてくれることを。