滝壺をやわらかく抱く虹があり私にはただ爆ぜる哀しみ
読んですぐに、作品のなかで主体が体感したであろう感覚が刺激されました。「滝壺」のまわりにひとけはなく、名も知らぬ植物の緑と流れる水の青と白、虹。「爆ぜる」という強い語からは音や水のにおいが想起させられ、「私に」とあることで主体が滝壺のすぐ近くにいる様が感じれます。主体は虹を思い描きながら、その身には水飛沫が爆ぜるのを受けているのかもしれません。
そういえば、主体が「哀し」んでいるのはなぜなのでしょう。滝壺は虹に抱かれているのに、私のことは抱いてくれない。ただ目の前で「爆ぜ」て消えてしまう。わたしを抱くはずのなにかが失われている。そんな哀しみでしょうか。動を表す「滝壺」と静を表す「やわらかく抱く虹」、「やわらかく抱く」暖かさと「ただ爆ぜる」残酷さ。このふたつがそれぞれ対比されることで、「滝壺」の反対に置かれる「私」のちっぽけさ、孤独さがいっそう際立ちます。
しかしこの歌は、もしかすると「哀しみ」はどうでもよいのかもしれません。作者は主体の心情をあえて「哀しみ」だと言い切っています。読者が解釈する余白を制限しているようにも感じます。「哀しみ」まで読んで主体への関心が中断されると、視点は離れ、意識は作品全体に向けられます。そこには精緻に計算された構図があります。絵としての美しさがあります。
作者が見つけて切り取った世界の美しさが、遠近感を強調した構図の力強さ、語の持つ想像力によって伝えているのでは。言葉によって心に浮かんだ景色を足さず、引かずに伝えているのでは。そう読みました。不思議なことに、この景色を見る私の心には、たしかに「哀しみ」があります。感情つきの絵画。きれいです。