『子どもの隣り』 by 灰谷 健次郎
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読んだ/観た日:2020/07/01 - 2020/07/18
★小説/絵本/映画/マンガ/ドラマ/アニメ総合:3.7
ストーリー:3.5
エンディング:3.3
登場人物/演技:3.9
絵/文章/映像/音楽:3.8
世界観/独創性:3.5
おしゃれさ/エンタメ性:3.3
深さ/哲学性:3.5
他の人におすすめ:3.7
あらすじ/概要
「わたしはどうせ死ぬんだから」――四度目の心臓手術を拒否し、いつもそう言っては母親を泣かせている少女・千佳。その千佳が、隣の病室の患者との触れ合いの中で、次第に心を開いていく様子を描いた「燕の駅」。四歳の男の子・タアくんの日常と、その瞳に映る様々な大人たち、そしてタアくんが心の中に秘めている痛いほどの孤独と不安を描き出す表題作「子どもの隣り」など、全四編を収録。現代に生きる子どもたちの傷つきやすい心を繊細に描き出した、珠玉の作品集。
目次
燕の駅
日曜日の反逆
友
子どもの隣り
読書/鑑賞中メモ
燕の駅
日曜日の反逆
「親孝行な子って言われたら、ぼく死にたくなるもん」
どういう…ことだ…ちょっとわからんかった
友
「家庭の中にちょっと不良っぽいことを持ち込むことで、けっこうイカス父親のつもりなんだ。そういうところはカワユーイって感じ」
「たったそれだけのことで、家庭の平和が買えるのだから、これくらいの偽善は、神さまも許してくれると、ま、思う。わたしはそんないやらしい子。」
「はじめは叱られているつもりできいているけれど、だんだんしらけてきて、父が立派なことをいえばいうほど、ばからしくなってくる。父は組合の役員をしていたことがあって、民主的ルールという言葉がお気に入りみたいで、家族会議も民主的ルールにのっとって、ひらかれているらしいのだけど、わたしはこの話し合いの時間が、イヤでたまんない。わたしは父や母をふつうに愛しているけれど、それはときどき、父母を恨んだり軽蔑したりするからだと思う。そういうことは父も母もわかってないみたい。」
本来多面的な人格が自我として統合されていく(されてしまう)過程の繊細な動きが描かれている
子どもの隣り
日常の中に”まあいいか”で消えていってしまう、いや、まあ良いかとさえ思わない、言語化されない感情たちが、素直に言語化されている感じがして、”お”という、驚きとも恥ずかしさとも自己防衛とも取れる反応をするしかない。
十分に言語化された大人は言語化されているがゆえに理性的であるが、感情の流れそのものは、言語化によって水路のように整然と流れ、事実、その流れは本来よりも単純である。言語化されない子供の思考は、言語に邪魔されず、自由な思考ではあるものの、言語化できないために、うちに込められ、形にならないまま消えてゆく。まあそれはそれで美しい。
感想/考察
よき。読み始めてからちょっとおいておいてしまったんだけど、ちゃんと読み始めたら一日で一気に読み終わった。没入感がある。
たしかに子供の隣りという感じがする。少し”ほら、描写しているだろう”というところがないではないが、だがやはり、ハッとさせられるところがたくさんある。
子供の、言語に縛られない言語化は、知性の奥深さを感じさせる。表面だけ言語化された感情は、大人にとっては時に意味不明で、幼くも感じるけれど、その実、その背後にある自然な感情の起伏を、言語化されない思考の数々を僕たちが理解できないだけなのだろうと思う。理解は言語によってしかなされないと思ってしまっている僕ら、いやしかしその実態は、結局言語でしか理解できなくなった、ということに過ぎない。多くの現代人にとって、境界のないモノ自体への回帰は、恐ろしいのだ。
一番好きだったのは「友」かなあ…たぶん主人公が自分に近いんだろうな笑なんとなくませたあの感じとか、何不自由ない生活に少しメタで冷笑的な解説を加えることで自分を安心させている感じとか、なんとなく。僕は他の作品の子供のように、強くはなかったと思う。