自己
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仏教の思想から善悪の根拠を考える本
仏教では、生々流転、諸行無常などのことばがあるとおり、すべてはうつりかわり、不変、絶対がない
それでは、どこに根拠をもとめるのか? その思想である
善悪なしに善悪がたちあがってくる構造モデルを作るのにおおいに参考になる
まず、「自己(自分、私、行動なども含む)が、他のものによって決められている」ことが重要となる 受け入れる、受け入れられない、この受容、拒絶自体は善でも悪でもない
善悪が問題になるのは、まさに「掟」が関係することのできない、この「自己と他者の関係」においてである。
つまり、「他者に決定されながら、それ自体は他者でない」 と いう根源的矛盾、
「他者に課される存在」という「自己」の在り方に対する態度のとり方が、
善悪の問題、その区別の必要性の問題なのだ。(p.23)
ここでいう「掟」は群れのルールをさす。このルールは無条件・無意識の行動である。
「掟」は群れにおける「自己」と「他者」の関係を決定しているが、その関係の仕方自体 を群れの個体各々が問題にすることはない。彼らは「関係」に対して関係することはできない。(p.22)
そのルールが問題とされれば(意識されれば)この本でいう「関係」「関係性」とよばれるものになる。用語として区別されている。 関係は動物にもあるが人間と違うのは関係性を考えない
他者との関係、決められているルールを、受け入れる・受け入れないがあるかないか
善悪が、動物にはなく、人間にある理由となる
既に述べたごとく、善と呼ばれる行為は、「しなければならない」こととして現象し、悪は「してはならないこと」として現象する。(p.109)
善を「しなければいけないこと」、悪を「してはいけないこと」に言い換え、自己がほかのものによって規定されるモデルをつくれば、善悪・倫理をまったくもちいないで、善悪が発生するモデルを作ることができる
善は、無意識に強いられていること、となる(悪も)
強いられているのではなく、自らに強いている、が正しい
正義であればなんでもできると思い込んで正義を振りまわして他人を傷つけている行為へのカウンターとなるはず
ただし、殺人などを止めることもできなくなる。
殺人(や悪いといわれていること)は、ただまわりからだめだと強いられているだけのものにすぎなくなるから
じつは上記書籍では、殺人の否定が、自己と他者との関係性から導きだしている
ここまでくるとこのモデルが別種の倫理モデルを作っていたことがわかる
このモデルが無意味かといえば、やはり、現行の倫理観(「正義はすべてに勝つモデル」)を俯瞰できる位置を獲得できるのでとても有用