プロレス
プロレスのファン
強い人とか目立つ人が好きなファンはすぐ新しい人に行ってしまう。売れたら奥さんを捨てる芸能人みたいに。
その人たちは(狭義の意味で)応援はしていない。愛してもいない。応援してる大好きっていっているのに実際にはぜんぜんしていない。批判ばかりになり、自分の理想を追い求める。 自己投影する見かた。
応援してる人も自己投影しているのだろうからこの言葉での分類はよくないかな
プロレスにうまさを求める
マニアは批判することをプロレスの質を向上させることのように捉えているが、現実には性癖の追求になってしまう。 その結果、人を選ぶジャンルになってしまう。(集客が減少する)。
プロレスの仕組み
もう、それをふつうに語っていい時代になった。
けど、コンプレックスもしくはPTSDみたいなものは残っている。
否定してる人もまだいるし、言い訳付きで認めている人は多い。が、その人たちも、認めているように見せているだけ(自分を騙している)で、納得しているわけではない。例えばアメリカは台本があるけど日本はアドリブでやっているとか。つまり戦っていると本当は言いたいわけだ。
なぜフィクションなのに楽しいのか?
フィクションは楽しい、から。
フィクションにしかないものがある。
「プロレス=AV」説というものがある。
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戦う、と、戦いを見せる、の違いがある。
戦いを見せる要素が強くなるとどんな格闘技、競技も、プロレスの性質が現れる。
不謹慎な話だが、戦争の話でも、人を惹きつけるのはそこ、ドラマ性とアクションだろう。
生死も人を惹きつける。生死はきわめて重要な問題なため人によって対応が異なる。引きつけられたり、遠のいたり、激怒したり、無視したり、感情を激しく揺さぶる。 ロラン・バルトが、レスリングの魅力は劇場性にあることを書いている。(翻訳は品切れで高い)。 勝敗があらかじめ決まっていたり、技の受ける側の協力などが、魅力を削ぐ、幻滅をもたらす気持ちもわかる。 格闘技コンプレックスが一時期のプロレスを支えていたらしい。
ガチといわれるものでも引き分けは割とガッカリさせられる。
一方、マンガや小説、映画の戦いは、すべて決まっていて、すべて作り物なのに、人を魅了する。
勝敗の付け方による魅力の変化
古い時代の戦いは、名乗りをあげたり、避ければ楽なのにかならず門のところで戦ったりと儀式性を持っていた。 プロレスはコミカルとシリアルが同時に存在しえる。
すべての戦いがプロレスにならないものか
格闘技のまがいものをみるのではなく、プロレスをみる
格闘技は、ルールが作られ、守られ、競技になり、プロレスのほうが意外にも戦いに近くなる 凶器、反則攻撃があることが、プロレスが競技ではなく戦いであることを保証している(引き止めている)
https://gyazo.com/072586cab32f5476af4d6fab6cf49ccf