神国
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歴史的流れ
平安前期、869年(貞観十一年)、調(税)の綿や絹を輸送する貢綿船が博多湾荒津から出港したところ新羅の海賊船2隻に襲われる事件が起こった。(p.38-)
その後、敵国が攻めてくると占われる怪異や、対馬の鵜飼いが国境付近で新羅につかまるなど起こったため、厳しい処断がおこなわれることとなる。 政府は、応神天皇、神功皇后ゆかりの廟社、天皇陵、皇后陵に祈願した。日本は神国であることと、神の守りを求めた。
新羅に対する排外意識の契機とみなされる事件である。
奈良時代にすでに排外意識が見られていた。
奈良時代、774年(宝亀三年)、新羅からの外交使節の貢ぎ物が服属を示す「調」ではなく、ただの「信物」にして臣下の姿勢をとらなかったことを無礼として、使節の受け入れを拒否。
政府は「新羅は凶悪で醜く、恩義を顧みずに早くから毒心を抱き、常に呪詛している」として、仏法で国土を守護するために四天王像を制作し新羅を望む高い峰に安置し読経をおこなわせた。(p.40)
この文章は日本書紀の欽明紀二十三年(562)の条に基づく。「三韓征伐のときに許してやり繁栄までさせてやったのになぜ恨まれればならないのか」。
「筥崎宮」 は、新羅の脅威への守りとして建てられた神社である(923年・延長元年)。
921年に、御子による八幡大菩薩の託宣があり、穂浪宮(大分八幡宮)を移転して造立。神体は応神天皇。託宣によれば、穂浪宮の石体は太多羅子姫でありこれは穂浪宮から移さぬようにとのことだった。 太多羅子姫は応神天皇の母、神功皇后で、神功皇后には新羅、百済、高句麗、朝鮮三国を無血降伏させた「三韓征伐」といわれる伝説がある。
日本の朝鮮に対する外交意識は三韓征伐がベースとなる。情勢によって、(復讐をたくらむ)脅威となったり朝鮮とは古くからの結びつきがあるとしたり、解釈は変化する。朝鮮側も三韓征伐を由来にして親睦の条約を結ぼうとしている。
「神国」の語の文献上の初出は日本書紀の三韓征伐を描いた新宮皇后の条にある。
1019年(寛仁三年)4月9日、博多に異賊の襲来があり、この 筥崎宮と警固所で戦闘が起こった。(p.14~)
終盤、嵐の発生により防御に猶予ができたため、大宰権帥藤原隆家は「神明の所為か」と評した。
これは壱岐・対馬から始まる海賊による大規模な襲撃事件で「刀伊の入寇」と呼ばれる。
この事件は、日本の高麗(外国)への猜疑心を大きく高めた。
考察
外国の脅威は、反面、日本の弱体であり、その不安を埋めるために(軍事など物質によって埋められないために)、神に守られた国「神国」が信じられるようになる。 日本は平安時代いや奈良時代からなにも変わっていない?
伝説にすぎない三韓征伐から実際に韓国併合したりしているから変わってはいるか?