宮台真司がネトウヨを語る「あれは知性の劣化ではなく感情の劣化だ」
日本は反知性主義の時代に突入した
〈感情の劣化〉とは、簡潔に述べると、真理への到達よりも、感情の発露の方が優先される感情の態勢です。つまり、最終的な目的が埒外になってしまい、過程におけるカタルシスを得ようとする傾向。別の言い方だと、感情を制御できずに、〈表現〉よりも〈表出〉に固着した状態です。ちなみに〈表現〉の成否は相手を意図通りに動かせたか否かで決まり、〈表出〉の成否は気分がスッキリしたか否かで決まります。部族的段階では「政りごと=政治」と「祭りごと=祭祀」とが区別されなかった。つまり〈表現〉と〈表出〉が癒合していた。癒合を支える前提が、濃密な共同性です。でも複雑な社会になると全域を濃密な共同性で覆えない。だから、文明的段階(帝国的段階)になると、必ず〈表現〉と〈表出〉が峻別されるようになります。例えばプラトンは、紀元前5世紀後半になると、政治に〈表現〉と〈表出〉の峻別を求めるようになります(哲人政治)。近代社会も複雑だから、〈表現〉と〈表出〉の峻別がないと社会システムが淘汰されてしまう。血縁集団であれ、企業組織であれ、国民国家であれ同じこと。だから近代では人々に以前より感情の制御能力が強く求められます。 そして21世紀に入ると、先進各国で〈大衆〉の感情に訴えて溜飲を下げる勇ましい連中が、議員や大統領に選ばれるという〈感情の政治〉が始まり、資本移動自由化にブレーキがかからぬばかりか、浅ましい排外主義が跋扈します。 回避には、短期には浅ましい輩から主導権を奪うスモールユニットでの〈熟議〉と〈ファシリテイタ〉の組合せ(フィシュキン&サンスティーン)が、長期には〈感情の教育〉(ローティ)による〈感情の民主化〉(ギデンズ)が必要です。要は、〈感情の劣化〉を被った〈大衆〉を煽動する〈感情の政治〉を潰すべく、短期・長期の戦略を駆使して、〈大衆〉を排除して〈公衆〉を取り戻す。 一部は劣等感を回避すべく草食化します。こうした状況を福祉学周辺で〈疑似包摂社会〉(ヤング)と呼びます。機会から排除された人々が、それを適切に意識できず、排除された人々同士が浅ましい妬み嫉みでつぶし合う。オーソドックスにはこれがヘイト現象の背景です。こうした分析が妥当なのは、ヘイト連中が、かつてのブルーカラーや地方出身者と違い、僕らの友人知人の範囲に見つかる独特のキモさを漂わせることで分かります。〈自意識の困難を社会の困難にすり替える輩〉独特の佇いです。 紀元前5世紀来の思考伝統だと、計算可能性を重視するのが〈主知主義〉。情念を重視するのが〈主意主義〉。前者を左と呼び、後者を右と呼ぶのがシュライエルマッハ。その意味で、新左翼は〈主意主義〉で、実は右の系譜です。 社会が良くなれば人は幸せになると見るのが旧左翼。社会が良くなったくらいじゃ幸せになれないと見るのが新左翼。より一般的には、前者が左、後者が右。
冒頭の言い方に翻訳すると、「話せば分かる」の〈表現〉一辺倒が左。言語化できない〈表出〉の基底を重視するのが右。
お門違いに河野太郎に河野談話問題で文句をつける、劣化した輩を例にとります。ネットが一般化する90年代半ばまでなら「それは親父の方だろ。そんなことも知らねえの?」と周囲に一喝されて終了。なのに「それでも河野太郎は気に食わねえ!」と恥なく返せるのは、それを許容する〈劣化空間〉があるから。 自分が日本人というだけでゴキブリ呼ばわりされたらどう感じるか想像しないのは、想像力より感情能力の問題だ。アダム・スミスは、資本主義が神の見えざる手を駆動させるのは、市民が〈同感能力〉を持つ場合だけだと考えた。僕だって君だって、「日本人にネトウヨが大勢おり、それが支持する安倍晋三が首相をやっている」というだけで、他国でゴキブリ扱いされたくないよね。 道徳心理学者J・ハイトは実験心理学的には政治的表現に5つの感情の押しボタンがあるとします。ケアという弱者共感、公正と自由たる平等、忠誠たる伝統、秩序をなす権威、そして聖性。アメリカの民主党は、このうち弱者共感と平等のボタンしか押さないでやってきたと言います。他方の共和党は、弱者共感と平等のボタンを(やや低頻度であれ)押した上、伝統・権威・聖性のボタンも押すから選挙に強いが、オバマは従来の民主党候補と違い、伝統・権威・聖性のボタンも押したから大統領になれた、と言います
マクロには、ヘイトデモに抗う反ヘイトデモにせよ、広告代理店的動員に抗う広告代理店的動員にせよ、〈感情の政治〉に〈感情の政治〉で抗う他ない。ミクロには、〈熟議&ファシリテータ〉の組合せで完全情報化を図る他ない。 1960年代から70年代にかけての人文書全盛時代のような〈知的物量作戦〉の機能的等価物を復活させなければいけないし、同時代の“左翼ゴロツキ”の機能的等価物を復活させる必要もあります。ただし、間違っても、〈知的物量作戦〉によってネトウヨを論破できるとか説得できるとか思っちゃいけない。同じく「彼らにも他者の悲しみを自分の悲しみとする能力があるはずだ」などと考えるのもダメ。現実を見ましょう。