10
氷のように固まったのは初めて女の子と一緒に帰ることになって恥ずかしい死んじゃうというウブな僕の心情描写であるが、それは帰りだして十分もしない間に昇華した。
「…………」
僕と彼女は黙ったまま、通学路を並んで歩いていた。朝、あれだけ晴れていたにも関わらず、今は空も低く雲が広がっていて、灰色の天候はまさに、今の僕らの状況を表していた。
僕はてっきり楽しいひとときを過ごせるものばかりだと思っていたが、どうやら違うらしい。
彼女の顔。笑っていない。曇がかったような表情で、僕は不安を抱いた。
「ごめん」
僕はこの沈黙がたまらなくなって先陣を切った。
「約束、忘れてて」
「ううん。別に大丈夫」
「そう」
「…………」
全然大丈夫じゃないよなぁと思いつつ、僕は会話を続けた。
「今日のリーディングさ、難しくなかった? 関係副詞あたりがちょっとよくわかってなくて苦戦したよ」
「うーん、そう? 関係副詞よりも関係代名詞の方が難しくなかったっけ今回」
「そー……だったかな」
「…………」
ついに僕の会話のストックが底をついた。次、どうやってつなげよう。
信号が赤に変わって、僕達は立ち止まった。交差点の車と彼女を交互に見つつ、何か話題をと、必死に頭をめぐらせた。
しかし青に変わっても特に思いつくことができなかった。長い横断歩道を彼女に合わせつつ歩いて、渡った先を左に曲がった。僕の家はこのあとひたすらまっすぐに進むだけなのだが、感覚的に自分の家がものすごく遠いところにあるように思えてならなかった。
鉛のような空気をまとった僕達は、そのまま500mくらい歩いて止まった。彼女がふいに僕を見た。
「あのさ」
「うん」
「私達、もう終わりにしない?」
「…………」
僕は唐突にフラレた。付き合ってすらないのに。
「そう、だね?」
「なんで疑問形なの」
「あ、いや……その、いきなりだったからつい」
彼女は訴えるような目でこちらを見ている。そもそもいつの間に付き合ってることになっていたのだ?
「斎藤くんの気持ち、聞かせてよ」
「えーっと……ファッ!?」
僕は返事に困ったが、今の言葉に明らかな誤りがあって正直驚いた。
「ファッ、ってちょっと」
「な、なんで斎藤が出てくるの?」
「だって、斎藤くんでしょ?」
彼女は僕を見ている。まさか僕が斎藤であると言いたいのか。あんなキルケゴールかじり出した青春野郎と一緒にするんじゃあない。ていうか僕が斎藤だと? どこをどういう風にみたらそんな……。
しかし僕は五月少女の、あの不敵な笑いを思い出した。もしかしてこれ、五月少女の陰謀か?
「僕が斎藤に見えると」
「見える」
「本当に?」
「本当に」
「そっかそっか」
多分十中八九、彼女は何か催眠術でもかけられたのか、僕と斎藤を間違っているらしい。それにしても斎藤よ、まさかお前と彼女がここまで冷え切った関係だったとはな。
ていうか斎藤の野郎、彼女と付き合っていたのか!? なんにも知らなかったぞ僕。
「ねぇってば」
彼女は斎藤の気持ちを聞きたがっている。何が修羅場ラ・バンバだ。少しでも期待した僕がバカだった。
しかしこれどう返事しよう。引き伸ばした方がいいのか。
まぁ普通に考えてちょっと待ったと言うべきだろう。結論を出すのは僕ではなく斎藤の役目だ。
それにしても斎藤め、よくもこんな可愛い彼女の存在を僕に知らせなかったな。
僕は深呼吸すると、心の中で斎藤の仮面をかぶった。今から俺は斎藤だ。
「俺はこの関係を終わらせる気はない」
「私は終わらせたい」
彼女は冷静だった。もうこの時点で、何を言ってもダメなような気がした。
「俺は君のことを愛してる」
自分で言って吹き出しそうになるのを必死にこらえた。なーにが愛してるだ。よくそんな言葉が口をついて出たもんだ。
彼女はしばらく黙りこくっていた。まさかとは思うが、思い直している? さっき終わらせたいってキッパリ言い切っていたじゃないか、どうした。さっさと諦めた方がいいぞ、ついで僕に乗り換えたほうがいいぞと思いながら、僕は引き伸ばすことにした。
「今までの言動に何か不快に思うことをしてしまったのなら謝る。俺が悪かった。今度からは君をそっけなく扱うことはしない。なぜなら俺は君のことが大好きだから!」
芸人のコントだなと僕は思った。なぜならとか口語じゃ言わないだろう普通。僕は首筋をポリポリと掻いた。いや突っ込むところはそこじゃないか。
「ハァ」
彼女はため息をついた。これは……試合終了の合図かもしれん。すまん斎藤よ、彼女を引き止めることは出来なかった。お前らの愛はここではかなく凍りついてしまうのだ。そういう運命だったのだ。
と。
ふいに抱きつかれる感触があった。
「……っ」
んんんんん? 一体どうしたんだ?
「やっと聞けた……斎藤くんの気持ち」
抱きついてきた彼女の肩に僕はぎこちなく手を添えると、あまりの豹変ぶりにしばらくの時間を要した。
「だって全然言ってくれないんだもん。愛に言葉なんていらない、とかなんとか言っちゃってさ。そんなんじゃわからないよ」
斎藤よ、愛に言葉なんていらないなんてマジで言ったのかお前。憤りを超えて僕はその的はずれなポリシーに拍手を送るよ。ナイスKY。
「俺より先に寝るなとかいつも綺麗でいろとか三歩下がってついて来いとか。どうしてそんな無茶苦茶なこと言うの?」
関白宣言か。さすがです斎藤キルケゴール先生。ところでお二人は、どちらから交際を申し込んだのですか? ラジオネーム五月青年さんからのお便りです。
「あの頃の斎藤くんはどこにいっちゃたの?」
いやいやいやどこに行っちゃったも何も、そもそも貴方が抱きついているのは斎藤くんではなくて非リアの喪男なんだよ。しかも美少女の幻覚が見える重篤な五月病スペック実装済み。
しまいにはわあわあと泣き出した。僕は彼女の頭をなでながら、通りすがる人達に会釈しつつ、彼女が落ち着くまでひたすら待った。そして泣き止んで目を赤くした彼女にキャラメルフラペチーノのを与えて僕達は別れた。一体何だったんだろうか。よくわからない。とりあえず、二人の世界は他人が覗いても理解不能なのだなというのがわかった。
自販機で普段買わない水を買って飲み、僕は斎藤に会った時、キャラメルフラペチーノ代とこの水の値段の十倍の金額を請求しようと心に決めた。