05
家に帰ると、五月少女が待っていた。
「どうしていなくなるんですかー」
うわーんと泣きついてくる五月少女を呆然と受け止めた。そんな馬鹿な。
「母さんっ」
僕は咄嗟に母さんのところへと向かった。晩飯を作っている母さんは顔をあげた。
「どしたん?」
「いや、どしたんもなにも。これ」
僕は泣きついて離れない五月少女を指さした。彼女の頭からほのかにシャンプーの匂いがした。
「これって何?」
「だからこれ」
「だから何よ」
母さんは眉間にシワをよせた。明らかに不機嫌になっていた。
ていうか見えないのか?
「母さん、今僕に何か抱きついてるよね?」
「はあ? 何言ってんのアンタ」
母さんはもう用はないと思ったのか、晩飯の支度に戻った。僕は黙ってリビングを出て、二階の自分の部屋に戻った。
カバンを下ろした後、五月少女の肩をぽんぽんと叩いた。彼女は泣きはらした目をこちらに向けて、涙を手で拭った。
「…………」
しばらく黙って見つめていたが、彼女はそこにいるように見えた。
僕は彼女に触れてみた。
確かに彼女はそこにいた。頬はすべすべしているし、黒髪も艷やか。頭を撫でると気持ちよさそうに目を閉じて、口元をほころばせてくれた。髪の先をくるくるした後、肩に手をやって人肌と肉感をしっかり覚えると、ああやっぱりいいなぁと思った。女の子にこうやって生で触れることが未だかつてあっただろうか。僕はもしかして、今とんでもない状況下にあるのではないのか。
「あの……」
「なんでしょう」
「五月少女って他には見えないんですか?」
「重篤な五月病患者にしか見えません」
「そう、ですか」
僕はそれから何度も何度も考えた。
これからどうするか。この状況をどうしていくか。
信じるか、信じないか。
伸るか、反るか。
今の所、母さんには見えないということは、本当に彼女は、五月病患者だけにしか見えないらしい。
そしてそれくらい僕は重篤な五月病患者である、ということだ。
僕は懐疑的になった。そんなに僕は重篤なのか?
確かにやる気もなけりゃ、気力もない。気込みもなければ向上心もない。
「ついでに彼女もいない」
「ほっとけ」
こんな状態の人間なんて、もっと腐るほどいるだろうに。なんで僕が見えるようになってしまったのだ? 巻物も落ちてきたし、僕が主人公になり得た要因は何だ?
『主人公気取ってんじゃねーよ』
僕はハッとした。また聞こえる。僕の耳にありありとそれは聞こえた。
どうせ主人公補正で見えるようになったんだろ? お前も所詮、物語の中心にいたがるような主人公気取ってるんだろう? 僕は深い絶望の淵へと立たされた。
どうしたらいい。
彼ら彼女らに指さして嘲笑されないようにするにはどうしたらいい。
何かこう、主人公っぽくない行動をとらねば。
肯定も否定もせず、アンニュイな感じで。
アンニュイじゃない。ファジィか。
……ファジィに伸るか。
「どうしました?」
「いや、この状況をどうしようかと思いまして」
「どうするも何も、活用しない手はないでしょう」
「それは、まぁそうですけど」
「もっと楽しいことしましょうよ。面白いことでもいいです。とにかく一刻も早く、この憎き五月病を完治させましょう」
「そ、そうですね」
彼女は気をとり直したのか椅子に座って机に向かい、近くにあった古文のノートを開いて何やら書きだした。
僕は覗いて見た。”五月病克服プログラム”とそこに書かれていた。
「五月病を克服するには、マイナスな感情を受け入れることのできるプラスな思考が必要になります」
「はい」
「そのためには、我慢していたことをする、嫌なものは避ける、暴れるなどがあります」
「はい。……はい?」
「つまるところ、やりたいことをやりゃあいいんです。そういうことです」
「なるほど」
ざっくりとした答えが返ってきた。やりたいことをやる、か。
僕はとりあえず、彼女の言う事を信じてみることにした。野次はすぐさま僕を襲ってきた。ええい煩い、主人公気取ってやろうじゃあないか。