書評: 鳥の渡り生態学
樋口広芳(編) 330頁
2021年6月 東京大学出版会
定価5,500円+税
ISBN: 978-4-13-060243-3
空を飛べる鳥は,遠くへ行ける.地上を歩く私たちには無限にも見える海を越え,鳥たちは,例えば日本から中国大陸,東南アジアの島々へ数千kmを移動する.空を飛ぶ鳥たちを地上から眺めるしかなかった人類にとって,鳥の渡りは大きな謎であり,ロマンでもある.
今から30年前の1990年代,渡り鳥研究の世界に大きな変化が訪れる.その主要因のひとつは,人工衛星を利用した測位技術などに代表される科学技術の進歩.地球規模の長距離移動追跡を可能にする測位装置やデータを衛星に送る装置が,鳥に装着できるほど軽量かつ小型になり,フィールド研究者に利用可能な形で普及した.
もうひとつの要因は,市民科学のさらなる成長.鳥の位置情報を広域にわたってモニタリングしたデータの価値を,明快に示した研究成果が多数報告されるようになった.この流れには,1990年代からのインターネットの爆発的な普及を基礎にする大規模データベースの構築と利用システムの拡充といったIT技術の進歩,空間や時系列のデータを含むビッグデータ解析を可能にする統計学の進歩も関係しているだろう.これらの相乗効果によって,単独の研究プロジェクトでは押さえきれない広域におよぶ渡りデータが,地球規模のスケールでかつオープンに共有されるようになった.
と,えらそうにここに書いたことは,ほぼ本書のウケウリ(笑).本書は,こうした眩暈を覚えるほどの勢いで進む渡り鳥研究の発展を担ってきた人たちが,現場体験者ならではのリアルな言葉で,その成果をバランスよく読みやすい文章にまとめた良書である.
編者による序章と終章では,本論12章にわたって描かれる渡り鳥研究や保全活動の成果とその未来が,編者ならではの筆力で分かりやすく平易な文章にまとめられている.渡り研究にくわしくない人だけでなく,専門家にも親切な道案内になるだろう.
渡り追跡の最新論文を読んだことがないというあなたには,I部「渡りの経路」からじっくり読み進めるのをお薦めしたい.例えば日本で越冬するオオハクチョウやオナガガモなどの渡り経路が線の束に見えるほど多数追跡されていること(1章),あるいは本州で繁殖するハチクマの数千kmにおよぶ渡り経路の解像度のきめ細かさに驚くかもしれない(2章).体重数十gの小鳥類の渡りが詳細に分かりはじめていることや(3章と6章),ミズナギドリ類などの海鳥が赤道を越えて行なう渡りの多様さと複雑さに(4章)ワクワクしてしまうかもしれない.個人的には,上空を渡る鳥を30年以上地上から記録しつづけた成果が,最新技術を使った他の成果と並んで1章を割いて紹介されている点こそ(5章),渡り鳥研究の奥深さ示す本書のすばらしさだと感じている.
そして,II部「環境利用と生活史」の内容にドキドキした.渡り鳥の生理適応や進化生態の謎,渡り鳥の生息地保全に関係する問題がここまで解明されたのかと思いを新たにした.温暖化による豪雨や干ばつなどが身近なものになってしまった2020年代.この極端気象に対して渡り鳥はか弱い存在なのか,たくましく生き延びる可能性を秘めた生物なのか.私たちは,渡り鳥のために地球の未来を見とおした「先どり保全策」を進めることはできるのか.こうした私たちの疑問(=心配?)にも,渡り鳥の研究はいくつもの答えを提案し始めている.
III部「保全と管理」も読みごたえ十分の内容である.東アジアと東南アジア,そしてオセアニアまでを視野に入れた保全課題として,熱帯の森林伐採の深刻さ,干潟やサンゴ礁の消失,密猟などの深刻さを,日本にくらす私たちも忘れてはならない.そして,渡り鳥と人間社会の関係を考えていく上で,感染症も忘れてはならない大きな課題である.こうした変化の著しい応用分野の話題について,最新情報がまとめられているというのは,本当にありがたい.
本書を読み終え,ここに紹介された成果が,鳥の渡りという難題に対する人類の知の営みの勝利の徴だと実感するとともに,ではこれから私たちに何ができるのかを考え動き始めることの大切さも,改めて感じている.
藤田 剛
(東京大学)