デリダ読書ノート:第四回講義
デリダ読書ノート: 思考すること、それはノンと言うことである.第四回講義(p121-152)
最終の第四回でも、デリダはさらに否定の起源をさがしています。
そして、たとえば人と世界の関係をさぐるとき、人と世界というふたつしかない、という形ではない見方が、ていねいに示されます。別の第三の要素があるという案でもないところがミソでしょうか。
人と世界という単純に分けたふたつではない「ところ」に否定の起源があり、これを理解することが思考とはなにかという答えにもつながる、というアイディアだと理解しています。
説明の中心はフッサール。フッサールに沿って、人はある事物をみるときにまず判断の前に確信をもち、否定も判断の前に生まれることを解説します。これをフッサールは「志向」という「容器」だとしているようです。
フッサールの哲学でおもしろいと思ったのは、思考を理解するために、あるいは否定の起源をさぐるために、時間の流れを取りいれていること。
今と今はいつも緊張関係にある。「把持(はじ)」されている過ぎ去ったばかりの今と、今、そして「予持(よじ)」という形で先取りされる今。これら今と今の緊張をとおして生まれる効果を「志向的弁証法」とフッサールは呼んでいるようです。
ぼくはまだうまく自分のことばにできませんが、否定はこの「予持」された今が「裏切られる」ことで生じる、というのがフッサールのアイディアだと思います。
つぎにサルトルが登場。サルトルはハイデガーに沿いながらも一部改変し、フッサールの「志向」は事物ではないとフッサールの見方を否定します。その一方で、サルトルも否定が判断の前に生まれるとしています。
最後にハイデガーのことば「存在と存在者の差異」をつかい、デリダはこの差異にこそ否定の起源があり、それを理解することでアランのことば、「思考すること、それはノンと言うことである」を理解できると締めくくっています。
存在者と存在の差異。ここから否定が生まれ、思考というプロセスを理解する鍵もそこあるという仮説だと、今のところ理解しています。
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フッサールとサルトル、そしてハイデガー。この三人の哲学もざっとでいいので眺めてから、この講義ノートをよみなおすと、もう少し自分のことばで、このデリダのことばをかきなおすことができるかもしれませんが、その優先度は少し落としておいて、まずはつぎのデリダをよみたいと思っています。
(10:20, September 30, 2024)