真面目さ
Paul Graham - earnest
あなたが誰かを真面目と言うとき、あなたはその人の動機について発言していることになる。真面目さは、「その人が正しい理由で何かをしているということ」と「その人ができるかぎり一生懸命努力しているということ」の両方を意味している。私たちが動機をベクトルとして想像した場合、真面目さはベクトルの方向も大きさも正しいということになる。だが、当然この両者は関係している。正しい理由で何かをしているとき、人びとはより一生懸命に努力するのだ。[1]
動機がシリコンバレーで非常に重要な理由は、シリコンバレーのかなり多くの人たちが間違った動機を持っているからだ。成功するスタートアップを始めることは、あなたを金持ちにしたり有名にしたりする。だから、スタートアップを始めようとする多くの人たちは、そういった理由でスタートアップをやっている。何の代わりに? 「問題自体への興味」の代わりにだ。これが*真面目さの根源だ。 「問題自体への興味」の代わりにある動機づけとして、功名心やお金を強調するのは、ちょっと違う気がする。(彼はVCに居てそういう輩をたくさん観てきたのだろうけど)
僕が気になっているのは、もう少し誠実で善い響きのあること、例えば「社会をデザインの力でよりよくする」とか「テクノロジーの力で企業価値にコミットする」とか、そういう方向性の興味
耳触りはいいけれど、実は「それそのものの話をする」という話からはズレている。その個別具体的な対象への興味や取り組みが、結果としてなにかをよくする、価値にコミットするなら分かる。だけど、なにかをよくする、価値にコミットすることへの興味は、今この瞬間あなたがデザインやテクノロジーという具体的なものに惹かれてやまないことの十分条件ではない。(必要条件と十分条件) 合目的的な世界観のなかで、デザインやテクノロジーをなにかを達成するために有用なもの、手段としてしか見做していない人は、それらの局所最適化問題には応えられても、それそのもののあり方を問うたり、相対化したり、オルタナティブを提示することは出来ない。何より、ある種の自己目的化、Fetishizationを悪とする人の仕事は、往々にして正しいが退屈。(実際そんな極端な人は居なくて、なんかようわかんないけどデザイン好きなんよね、っていうモチベーションは少なからずあるとは思う)