分散された権威
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これまでは、賞やランキングといったものが「みんな違ってみんな良い」という牧歌的な世界にヒリヒリとした序列を生み出していた。
それゆえに、そういった権威からは距離を置いて大衆に尽くすスタンスがカウンターたり得た。
しかし、再生数やLikes数のような形で市井の人々からの支持がこれまでになく厳密に定量化されてしまう評価経済の時代において、むしろ権威こそが、収斂進化へと誘う淘汰圧に対し、表現をバラつかせる抗力として働くようにも思える
それも、ただ一つの権威だけではなく、細分化された制作者集団が、それぞれ別の権威を信じている状態が理想的なのではないかと。
権威には往々にして自己目的化したフェティシズムやハレーションが伴う。
四六時中デザインに触れてると、デザインが社会に及ぼす効用としてのデザインのよさではなく、デザイン業界という文脈のなかでの正統さ、あるいはその逆に突出したところが気になってくるから。
冒頭のツイートで筆者が「デザインのためのデザイン」として批判されていたのはそういうことなのかも
一方で、そうした倒錯はむしろ必要なことなのかも
世のため人のためだけに制作することだけを良しとするのは、基礎研究に投資せず応用工学だけに励むようなもの
大衆の嗜好は大概にして保守的なので(『ぽさ』が何だかんだ好まれる)、そうした需要に近視眼的に応え続けることは、シーンを均質化し、先細りさせることに繋がる
国内YouTuberのサムネイルは別に誰が指定したわけでもないのに、過剰に様式化している
どう役にたつか分からないが、デザイナー自身の好奇心を満足させるような実験精神、そしてそれを面白がる内輪なノリ
たとえそれが世の中一般の価値基準から乖離したとしても、よさの広域探索のためには必要悪なのかも
Artist's Artist(アーティストに尊敬されるアーティスト)
映像作家100人
「映像作家100人にお呼ばれしない系」という自虐や揶揄も毎年見かけるが、シニカルに構えるくらいなら自分が納得できる権威をでっち上げればいい 年鑑のように「権威」然とさせずとも…
というか、編集やアーカイブ、批評に対するアレルギー
日本ゲーム大賞は、基本的に得票数が一番大きな判断基準になりますから、どうしても人気票になってしまいます。純粋に売れて母数が多いものが有利です。だけど、ゲームの評価ってもっと大切なものがあるのでは。商業と関係なく、ゲームに大切な独創性を、その産みの苦しみを味わったディレクターたちが拾い上げる。これは何らかの価値があることと思います。新たな芽を育てるためにも、票数だけで決まるだけではない、新たな価値をもたらす賞はあったほうがよいのではないかなあと。