マガジンハウス的なるもの
POPEYE, BRUTUS, Casa BRUTUS, Ginza
ネゲントロピー消費
物質的に飽和した社会における新たな消費の欲望
生活のなかで自然と蓄積されるエントロピーを下げるための消費
身近に仕事をしている人が多い中でなんだけども、マガジンハウス的なものはどこまでいっても規範的な消費者を再生産する装置だと思っている節がある メイカー運動やDIYカルチャー、Don Normanの仰る所のmessy life的なものには焦点を当てないだろうし、そうしたメディアには自分はこれからも縁は無いのだろうなと思うbaku89.icon
『POPEYE』を読んでいると、消費することでしか人生の意味を取得できない、文化とは消費することである、という消費主義を煽る雑誌でさすが文化の最先端、東京はえらいがんばっておしゃれしてはりますなあ。ポパイが作り上げるのは、「ちょっと情けないおれら」みたいなシティボーイの生活の集合的スクリプトをつくり出し、全員が同じ「こういうのがいいんだよね」を楽しむ文化であり、そこにはいっさいの自律性もなく、資本主義の先の革命への意志もない。しかし『POPEYE』にあるのは、文化的コミュニティへの帰属へのそれ自体は否定されるべきではない憧れであり、消費主義によって簒奪されたこのコミュニティへの本源的な願いをマルクス主義的批評は拾い上げなければならない。
https://scrapbox.io/files/674fde39e3e276226ea2ec75.png
「アーティスト・長場雄『カバーを外した素顔の本を本棚で美しくパッケージ。』」
壁付けの棚は〈ヴィツゥ〉製。写真集や画集はカバーを外し、色で分けて並べている。本の“素”の状態を収めて景色をつくりたいという考えからだ。
本の“素”が装丁の色なわけないのでは
このときの本棚は猥雑なのに
https://scrapbox.io/files/674fdf1140548b4a762826d0.png