ニッチな物語とマクロな物語性
#sage
Web Designing 2025年4月号
年末、珍しく忘年会に出かけた。
東京TDC賞グランプリをいただいた後だったので、少しばかりチヤホヤされたいという下心もあったと思う。その場で、同世代でUI/UXコンサルティング会社を経営されていると🍡(仮名)さんとばったりお会いし、TBSドラマ『VIVANT」の話題になった。あさんは、Netflixのような外資が入らずに民放だけであれだけ大規模なロケを敢行したこと、海外品質のカラーグレーディングや「プリズン・ブレイク』ばりにスピード感のあるシリーズ構成に驚いたと熱く語られていて。オタクとして、人の熱のこもった話は大好きなので、すっかり聞き入ってしまった。
それなのに、どういうわけか、忘年会のあとに2日くらい凹んでいた。
いろいろ考えてみたんだけど、多分『VIVANT』の話をしているようで『VIVANT』の話をしていなかったんですよね。🍡さんは「外資が入ってないのにあのクオリティ」だから感動したんじゃなくて、ドラマの中で描かれる人物や画に感動していたはずで。なんだけど、ビジュアルの細かな質感や手法に興味があるぼくと、コンサルティングやブランディングという上流工程からデザインに関わられている🍡さんという立場の違いを抜きにしても、🍡さんが生き生きと語る世界に、物語に素朴に感動する一ファンとしての🍡さんが存在していないことが、なんだかショッキングだったんだと思う。
「それそのものに肩入れせず、それを取り巻く抽象的な関係性や構造に価値を見出す」思考様式は、ホワイトカラーとして生きるうえで適応的に働くんだろうなという直観がある。と同時に、そうした立ち居振舞いにどこかモニョる自分もいる。顧客体験、企画力、プロジェクトマネジメント――これは本誌の特集タイトルからの抜粋なんだけど、こういう言葉を目にするたび浮かぶのは、いつだって具体的な存在や経験だ。曲を託してくれたあのミュージシャン、試したいあの手法、作品を観て率直にディスってくれる同業のあの人に、YouTubeのあのクソコメ。それらはぼくにとって不定冠詞つきの「顧客」や「企画」という言葉にはとても一般化し得ないものだ。2024年12月号の「What's On」で、バンド「MONO NO AWARE」のためにつくったMV『かむかもしかもにどもかも!(imai remix)』を取り上げてくださったときも、「ターゲット層」の回答を埋めるのがどうにも癪で、最後までゴネてしまった。編集部の平田さん、すみません。
知性は本来的に帰納や抽象化を志向する。そのありようは、プラナリアの負の光走性のように生得的に組み込まれた不変のものから、パブロフの条件反射、ジンクスや偏見みたいな心理的パターン、自然科学や金融工学のような精緻なものに至るまで、連続体を成している。今のところ地上でもっとも巨大なニューラルネットワークを頭に携えたぼくらは、「二度あることは三度ある」という自然の斉一性と「三度目の正直」という不確実性との狭間を揺れ動きながら、てんでんばらばらな事象を貫くエレガントな法則や物語性を見出すことに取り憑かれている。そして曖味な現実を生き抜くための再現性の高い方法論をひねり出すことに喜びを見出す。こうした知性の欲動の産物が、ベジェ曲線であり、オブジェクト指向であり、PDCAサイクルだ。
ぼくのキャリアにおける失敗の一つは、そうした帰納的推理の快楽を、プログラミングを用いたツール開発や、目の前の映像制作へと昇華してしまっているところにあるのだろう。物事を抽象的に眼差し、改善する力は、人的資本やビジネススキームのようなマクロな流れに向けてこそ効率的にスケールするのであって、個人のニッチな興味には釣り合わない。人間一人の生産性はせいぜい対数的にしか伸びていかないけれど、手を動かす人を動かす能力には指数関数的にレバレッジが効くからだ。それでも、こうした指向にどうしても魅力を感じられない自分がいる。このような領域で活躍する人たちの語ることが、率直に言えば、時折空疎なものに思えてしまう。デザイン、ものづくり、クラフトについて語っているようでいて、それそのものに十分に興味が向けられていない。結局のところ、それらを取り巻く関係性や構造の話ばかりをしているんだ。
でも、そうした空疎さは、ぼくが心の中で呼んでいるところの「企み人」として立ち回るうえですごくよいことなのかもしれない。空っぽであり、まっさらだからこそ、その時々の市場の需要にしなやかに適応していくことができる。執着だとか、その人自身のお気持ちなんてものはむしろない方がいい。美人投票の世界を経済的に生き抜くためには、美人さに対する強い信念とか、美人という価値そのものへの疑念はちっとも役に立たないから。そんな世界から一歩距離をおいて「ターゲット層が美人だと感じる因子は何なのか」をクールに分析しつづけるほうが、悔しいかな賢い生き方なんだと思う。
それそのものに肩入れする代わりに興味を多相的なままに留めること、個別具体的な物語(ストーリー)ではなく物語性(ナラティブ)について漠然と語ることへのほんのりとした違和感について、いつか🍡さんみたいなデザインコンサルティング界隈の人たちと腹を割って話してみたい。もしかしたら、ちょっと嫌われそうだけど……。