『チューリング完全ユーザー』試訳
#試訳
This is a rough Japanese translation of Olia Lialina's essay ”Turing Complete User” (2012).
I haven’t gotten her permission yet, but I went ahead and translated it anyway because I really love this text.
このテキストはネットアートの先駆者の一人、オリア・リアリナの2012年の論考『Turing Complete User』をchatgpt.iconの助けも借りつつ勢いで翻訳してみたものです。まだ彼女の許諾は取っていませんが…。
元はといえば、久保田 晃弘さん、畑 ユリエさんと今年のJAGDAデザイン会議に登壇した際、久保田さんに教えて頂いて知りました。今年上半期で一番感動した文章です。
文体については、ぼくの好きな感じで崩しちゃってます。内容も全然精査しきれていません。もし良ければ、FAQ#6799967df5066e000085edda からユーザー登録して、好きに編集してみてください。ある程度訳が固まった時点で、タイミングを見て彼女に連絡をしてみます。
また、脚注については以下の原文を参照してください。
http://contemporary-home-computing.org/turing-complete-user/
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どんな誤りも、装置の出力全体を無効にする可能性がある。このような誤動作を認識し修正するには、一般的に知的な人間の介入が必要である。
ジョン・フォン・ノイマン『EDVACに関する最初の草稿』(1945)
ブログできないなら、ツイートしろ! ツイートできないなら、いいねしろ!
キム・ドットコム『ミスター・プレジデント』2012年
見えないし、とても忙しい
コンピューターは見えなくなりつつある。
小さくなり、隠れ、皮膚の下に潜み、クラウドの中に雲隠れする。わたしたちはその過程を日食のように観察する。ちょっとだけ恐ろしく、ちょっとだけ気圧されながら。わたしたちは党派に分断され、ユビキタスとやらの利点と危険性について議論を繰り広げている。でも、どの立場をとったにせよ、今この瞬間が大事だってことは認めざるを得ない。
コンピューターが消えゆく中で、もうひとつ静かに見えなくなっているものがある――ユーザーだ。ユーザーは現象としても、そして言葉としても消えつつある。この変化は誰にも気づかれなければ、あるいは単に進歩として受け入れられている。
この「見えないユーザー(Invisible User)」という概念を推し進めているのは、影響力あるユーザーインターフェイスデザイナーたち、特にユーザーフレンドリーデザインの第一人者であり、インビジブルコンピューティング(見えないコンピューター)の長年の提唱者であるドン・ノーマン (Don Norman) だ。彼はまさにインビジブルコンピューティングの父と呼べるだろう。
インタラクションデザインを学ぶ者は、彼の1990年の論考『Why Interfaces Don’t Work(なぜインターフェイスはうまくいかないのか)』を読むでしょう。その中で彼は、自らの問いにこう答えている。「インターフェイスの本当の問題は、それがインターフェイスであることだ」。じゃあ、どうすればいいんだろう。「我々はタスクそのものを支援すべきであって、タスクへのインターフェイスを支援すべきではない。未来のコンピューターは見えなくなるべきなんだ!」
この未来予測が現実になるまで、だいたい20年かかった。それはマウスクリックが主要な入力方式ではなくなり、タッチ入力やマルチタッチ技術がわたしたちをハードウェアから解放する新しい可能性が示されたときだった。ほんの5年前の話だ。Apple製品(iProducts)の心地よさ、ARデバイスの小型化というブレイクスルー、ウェアラブルの台頭、あらゆるトラッキング技術(モーション、顔認識)の成熟。そしてプロジェクション技術の進歩が、入力デバイスと出力デバイスの間に歴然と存在した差異を消し去った。こうした革新は、私たちとコンピューターのインタラクションを、それが存在した以前の様相へ――インターフェイスデザイナーの言葉を借りれば、「自然な」ジェスチャーや動きへと変え始めている。
もちろん、まだコンピューターは見分けがつくし、どこにあるかもわかる。だけどそれはもう、わたしたちがその正面に腰掛けて使うようなシロモノではなくなった。見えなくなるという予測はかなり楽観的で、2012年にはAppleがノーマンの予言的な言葉を現在形に書き換え、コンシューマー向け電子機器に結びつけることさえ許されたほどだ。
私たちは、テクノロジーが最も優れているのは、それが見えないときだと信じています。つまり、何をしているかだけに意識が向き、何を使っているかを意識しないとき (…)iPadはその考えを完璧に体現しています。それは、魔法のような一枚のガラスであり、あなたが望むものに何にでもなれる、人々にとってこれまでに最もパーソナルなテクノロジー体験なのです。
この最後の一文で、「体験」という言葉は使われたのは偶然じゃない。「人々」も同じくだ。
コンピューターが見えなくなる、より正確にいえば「コンピューターが無いかのように感じさせる幻想」は、「ユーザーインターフェイス」という言葉を使い続けることで崩れ去ってしまう。だからこそ、インターフェイスデザインは自らを「エクスペリエンスデザイン(体験デザイン)」と呼び替えはじめた。その狙いは、ユーザーにコンピューターやインターフェイスの存在を忘れさせることだ。エクスペリエンスデザインの世界には、もはやあなたと、あなたの感情や達成すべき目標、完了すべきタスクだけが存在する。
この分野はUXDと略される。XはeXperience(体験)、UはUsers(ユーザー)を意味したままなんだけど。Wikipediaによれば、UXという言葉を作ったのは1995年のドン・ノーマンだ。2012年には、UXデザイナーたちは論文やカンファレンスの告知なんかでも「Uワード」を避けるようになった。過去の不格好なボタンや入力デバイスを思い出したくないからだ。インターフェイスはユーザーのためのものだった。しかし体験は人々(people)のためのものなんだ!
2008年、ドン・ノーマンはユーザーを「ユーザー」と呼ぶのをやめた。ユーザーインターフェイスデザイン会社 Adaptive Path 主催のイベントで、彼はこう言った。「皆が使う言葉で最悪なのが『ユーザー』だ。私は『ユーザー』という言葉を無くすための聖戦をしている。『人々』と呼ぶ方がいい」。聴衆が湧くのをひとしきり面白がったあと、彼は魅力的な笑みを浮かべて付け加えた。「我々は人々のためにデザインするんだ。ユーザーのためじゃない」。
確かにご立派な目標ではある。インターフェイスデザインという狭い世界において言えば、だけど。この文脈で「人々」という言葉を使うのは、ユーザー中心設計(user-centered)と実装中心設計(implementation-centered)の対比を強調するためだ。ユーザーは生ける人間なのであって、デザインや検証の過程で気を配るべき存在なんだって開発者に念押しする良い方法ではあるのかもしれない。
でも、もっと引いて考えてみると、「ユーザー」という言葉を捨て「人々」と呼ぶことは危うさを伴う。ユーザーであるということは、たとえコンピューターが見えなかろうと、そこに誰かによってプログラムされたシステムがあり、そしてそれを自分が使わされてるんだってことの最後の手がかりなのだから。
2011年には、ニューメディア理論家のレフ・マノヴィッチも「ユーザー」という言葉に不満を示した。彼はブログにこう書いている。「例えば、デジタルメディアとやり取りしている人をなんと呼ぶ? ユーザー? 感心しないな」。
確かに、ニューメディアでわたしたちができる素晴らしいこと――いろんな関わり方、参加形態、そこで果たせる多様な役割――を考えると、それを「ユーザー」という一言に押し込めてしまうのは勿体ない気もする。けど現実はそう。ブロガーも、アーティストも、ポッドキャスターも、荒らしでさえ、自分でプログラムを書いていないシステムを使うユーザーだ。彼ら彼女ら、そしてわたしたちでさえ、つまるところ皆ユーザーなんだ。
この言葉を守っていかなきゃいけない。なぜかって、「人々」と呼ぶことは、開発者とユーザーという二つの階層が存在することを隠してしまうからだ。この区別が失われれば、ユーザーは自らの権利や、それを守る機会を失いかねない。その権利とは、より良いソフトウェアを要求する権利、「どれも選ばない」を選択する権利、ファイルを削除する権利、ファイルを取り戻す権利、盛大に失敗する権利、そして最も根本的な権利――コンピューターを「見る」権利である。
言い換えれば、「見えないユーザー」は「見えないコンピューター」以上にやっかいだ
ユーザーという言葉、概念、そしてユーザーという存在そのものを守るためには何ができるだろう? ノーマンの聖戦を止めさせ、マノヴィッチの疑いを払拭するにはどんな反論があり得るんだろう? ユーザーであることが「良くない」とかいう意見以外に、わたしたちはユーザーについて何を知っているのだろう?
ひとつ確かなのは、元からこうだったわけじゃないってことだ。リアルユーザー(お金を払ってシステムを使う人々)が「ユーザー」と呼ばれるようになる前は、プログラマーやハッカーたちは誇りを持って自分たちをユーザーと呼んでいた。彼ら/彼女らにとって、ユーザーであることはコンピューターに対して取れる最高の立場だった。
もっと言えば、最初にコンピューターと開発者がいて、その後ユーザーが登場したと考えるのは間違いだ。実際には逆だった。パーソナルコンピューターの黎明期、注目の的はユーザーだった。ユーザーはコンピューターと同時に発展したのではなく、むしろコンピューターに先立って存在していた。コンピューター文化における最も影響力のあるテキストのひとつ、ヴァネヴァー・ブッシュの『As We May Think』(1945)を考えてみよう。ブッシュはMemexそのものについてよりも、Memexを使う人々について多くの言葉を費やしている。彼は未来の科学者、スーパーマンを描いた。記事の主役はMemexではなく、そのユーザーだった。
20年後、ハイパーテキストやマウス、そして先駆的パーソナルコンピューターシステム NLS の発明者であるダグラス・エンゲルバートは、自身の研究を「ブートストラップ(訳註: bootstrapping; ブームの踵についたストラップを引き上げて、ジャンプするという英語の成句に由来する。「ブートする」の語源。自己起動プログラム、自己進化のメタファーとして彼は使っている)」と呼んだ。人間の知性の拡張という彼の研究は、新しい技術とともに人間自身(脳も身体も)が進化していくという発想だった。フランスの社会学者ティエリー・バルディーニは、彼の著書でこのアプローチをこう説明している。「エンゲルバートは単にパーソナルコンピューターを作ろうとしていたんじゃない。コンピューターを使って、増大する複雑さを効率的に管理できる人間を作ろうとしていたんだ」。
そして忘れてはいけないのが、J.C.R.リックライダーの有名なテキストだ。リアルタイムシステムに関するARPAの研究からその指針を描き出し、そこからインタラクティブ/パーソナルコンピューターが生まれたこの論文のタイトルは『Man-Computer Symbiosis(人とコンピューターの共生)』(1960)だった。
パーソナルコンピューターが市場に投入される15年前、開発者たちは皆、ユーザーというものを一体どう想定すべきなのか考えていた。XEROX PARCではアラン・ケイとアデル・ゴールドバーグが、子供、アーティスト、ミュージシャンなどを新技術の潜在的ユーザーとして構想した。彼らの1977年の論文『Personal Dynamic Media』では、パーソナルコンピューターにとって重要なハードウェアとソフトウェアの原則が述べられている。革命的なのは、開発者とは異なるユーザー像が明確に位置づけられている点だ。別のXerox社員であり「ユーザー中心設計の父」と呼ばれるティム・モットは、同僚たちの想像の中に「秘書」というイメージを持ち込んだ。この「ロイヤルタイプライター(訳註: 20世紀前半から普及した米国のタイプライターブランド)を打つ女性」というイメージが、XEROX StarやApple Lisa、そして後の電子化されたオフィスのデザインを方向づけた。
つまり大事なのは、ユーザーはコンピューター以前から存在していたこと、ユーザーは誰かによって想像され、発明された存在だということを心得ておくことだ。想像の産物であるがゆえに、ユーザーは70年代、80年代、90年代、そして新世紀にわたって、何度も想像され、再発明されてきた。ところが、どれだけ合理的であれ、大胆であれ、未来的であれ、あるいは原始的であれ、こうしたユーザー像には変わらない特徴がひとつある。
このことを述べるにあたって、ここでもうひとり、ユーザー中心設計の第一人者のアラン・クーパーに触れたい。2007年、インタラクションデザイン界隈でまだUワードが許されていた頃、彼と同僚たちは『About Face: インタラクションデザイン必携』でこう述べている。
インタラクションデザイナーとして、特に初心者のユーザーを想像するときは、彼ら/彼女らがとても知的であり、同時にとても忙しい存在だと思っておくと良い。
これはもっともな助言だ(ちなみに、この本はインターフェイスデザインについての最も理にかなった書籍のひとつだ)。雑に言ってしまえば、「フロントエンド開発者諸君、ユーザーが君たちよりバカだと決めつけるなよ。奴らはただ忙しいだけなんだから」ということになる。だけど、この一節はそれ以上に重大な意味を持っている。この引用の後半で重要な点は、ユーザーとは、何か別のことでとても忙しい人々なんだっていうことだ。
こうした潮流を生みだしたのはアラン・クーパーではなく、タスク重視を説いたドン・ノーマンですらない。1970年代のテッド・ネルソンにまで遡る。彼は当時、最も重要なコンピューター用語集のなかで、「ユーザーレベルシステム」についてこう述べている。「ユーザーレベルシステム: コンピューターのことを考えるのではなく、そのコンピューターが助けるべき対象や活動のことを考えている人々のためのシステム」。その数ページ前には、こんな図が書かれている。
https://scrapbox.io/files/67b4dc852ecaa59975ba9e85.png
コンピューティングはいつだってパーソナルだった
つまり、もし君がコンピューターに心の奥底から、時には全集中するほどに関わっていなかったのなら、それは「コンピュータをやっている」ことにはならず、ただのユーザーだったということだ。
テッド・ネルソンは常にユーザー、そして「素朴なユーザー」の味方だったことを忘れちゃいけない。だからこそ、彼の皮肉めいた「ただのユーザー」という言葉は重い。
ユーザーがコンピューターから疎外されるようになったのは、XEROX PARCで秘書やアーティスト、ミュージシャンをターゲットユーザーとしたところから始まり、その流れは留まることを知らなかった。ユーザーは、彼らの本当の仕事、感情、思考、関心、才能――つまり重要なものすべて――が、パーソナルコンピューターとのインタラクションの外側にある存在として捉えられ、そういう風にマーケティングされてきた。
例えば2007年、ソフトウェア企業の Adobe が、いわゆる「クリエイティブ業界」で圧倒的シェアを持つ製品群 Creative Suite のバージョン3を発表したとき、グラフィックアーティストや映像制作者などがその新機能を称賛するプロモーション動画を制作した。中でも印象的だったのは、ウェブデザイナー(あるいはウェブデザイナー役の女優)の映像だ。彼女は新しいDreamweaverの機能を熱っぽく紹介し、最後にこう締めくくった。「これでようやく私が大好きなこと、クリエイティブになれる時間が増えるね」。Adobeからのメッセージは明確だ。なんでも、ソースコードやスクリプト、リンク、ウェブそのものについて考えれば考えるほど、あなたはウェブデザイナーとしてクリエイティブではなくなるということらしい。なんて嘘っぱちなんだろう。わたしはこれを、職業の本質を誤解した例として、デザインを学び始めた学生たちによく見せていた。
この映像はもうオンラインには残っていないが、Creative Suite 6の広告もそう変わらない。そこでもデザイナーやデザインエバンジェリストたちが、クリック数が減ったおかげで創造性が解放され、増幅され、豊かになったと言いふらしている。
ダグラス・ラシュコフは著書『Program or be Programmed』で同じような現象について書いている。
(…) コーディングは退屈な雑用、レンガ積みのような労働階級のスキルと見なされている。皆、そういうのは貧しい国に外注しておくもので、自分たちの子供にはビデオゲームを遊ばせたり、むしろゲームのプロットやキャラクター開発をさせたほうがいいと考えている。そしてプログラミングはただの作業であり、誰かにやらせるべきものだと捉えられている。
ラシュコフに言わせれば、コードを書くことは創造的活動として見なされていないらしい。これはコンピューターとの関わり全般についても当てはまる。つまり、コンピューターと向き合うこと自体は、創造的なタスクや「成熟した思考」とは見なされないんだ。
ヴァネヴァー・ブッシュは『As We May Think』の中で、未来の科学者をサポートする理想の装置を描きながら、こうも述べている。
成熟した思考に機械的代替は存在しない。しかし創造的思考と、本質的に反復的な思考とは全く異なるものだ。後者には強力な機械的支援があり得るし、それは今後現れてくるだろう。
でも、コンピューター科学者、ソフトウェア開発者、ユーザビリティ専門家たちが想定するユーザーは、できることならコンピューターについて一切意識することなく、さっさと作業を終えたい存在として描かれる。彼ら/彼女らはあらゆる「反復的思考」のために専用のアプリを必要するらしい。そして何より、創造と反復、成熟と未熟、現実と仮想の境界線を引く権利をアプリ開発者に委ねることになる。
確かに歴史のある時代や、人生のある局面(そして一日のうち何時間も!)では、この考え方が理にかなっていることもある。人に任せたり自動化することが必要で、それがありがたく感じられる瞬間はある。けど、生活すべてがコンピューター化された現代において、「他のことで忙しい」を当たり前として受け入れるわけにはいかない。
ちょっとここで、ユーザビリティ専門家たちの想像の範疇を超えて進化してきた別のユーザーモデルを見てみよう。
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“A scientist of the Future” Title picture of Vanevar Bush’s “As we make think” Illustrated version from Life magazine, 1945
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Russian travel blogger Sergey Dolya photo by Mik Sazonov, 2012
汎用性、愚鈍さ、そしてユニバーサル
ドン・ノーマンは『Why Interfaces Don’t Work』で、「見える」コンピューター、「見える」インターフェイス、そしてそれらに振り回されるユーザーたちを手痛く批判している。本を締めくくるにあたって、彼は問題の根源をこう示唆している。
今の状況にあるのは、ひとつには現在の技術でこれが恐らく最善だからであり、もうひとつには歴史的な偶然による。その偶然とはつまり、汎用テクノロジーをとても専門的な作業に当てはめようとしてきたのに、使うツール自体はずっと汎用的なままだったということだ。
2011年12月、SF作家でジャーナリストのコリー・ドクトロウは、ベルリンで開かれた第28回カオス・コミュニケーション会議で「汎用コンピューターの世界の来たるべき戦争(The coming war on general computation)」という、すばらしい講演をした。彼はこう言った。コンピューターが本当にノーマンの言うような小さくて見えなくて快適な専用機器(appliance)になる唯一の方法は、スパイウェアを仕込むことだと。
最近では、マーケティング部門の連中は「あらゆるプログラムを走らせるコンピューターではなく、ストリーミングやルーターやXboxのゲームみたいに、特定のタスクだけをこなす専用機器が欲しい」と言う。けど現実には、コンピューターを専用機器に仕立て上げるとき、単に“専用アプリだけを走らせるコンピューター”を作っているわけではない。全てのプログラムを実行可能なコンピューターに、rootkitやスパイウェア、コード署名を組み合わせ、どのプロセスが動いているかをユーザーから隠蔽して、好きなソフトをインストールできないようにして、不要なプロセスを終了できないようにしているわけ。言い換えれば、専用機器っていうのは、機能を絞ったコンピューターなんかじゃない。最初からスパイウェアが仕込まれているフル機能付きコンピューターなんだ。
ここでドクトロウが言うフル機能付きコンピューターとは、汎用コンピューター(General Purpose Computer)のことだ。米国の数学者ジョン・フォン・ノイマンが1945年の『EDVACに関する最初の草稿』で「汎用自動デジタル計算システム(all purpose automatic digital computing system)」と呼んだものだ。この論文で彼はデジタルコンピューターの基本原理(いわゆるノイマン型アーキテクチャ)を提示した。ハードウェアとソフトウェアを分離し、プログラム内蔵方式という概念が生まれたのである。当時革新的だったのは「配線を変えなくても、命令を電子的に記憶させることでコンピューターの機能を変えられる」点だった。
今では配線し直しの重要性自体はあまり語られないけれど、「一台のコンピューターでなんでもできる」という発想そのものは変わらず重要だ。表示入力機能しか持たないダム端末(dumb terminal)からスーパーコンピューターまで、背後にあるのは同じ汎用コンピューターなのだから。
ドクトロウの講演はこのテーマへの入口として最適だ。汎用計算への戦争の歴史をさらに深く知りたいなら、テッド・ネルソンを読むといい。彼はパーソナルコンピューターが汎用的であることの重大さに光を当てた最初の人物だ。1974年、あらゆる人々にコンピューターについて解説することを目的とした彼のファンジン『Computer Lib』には、こう書かれている。
コンピューターには本質も特徴もない
コンピューターは他のあらゆる機器と違い、完全にまっさらななんだ。だからこそ、ぼくたちは、コンピューターにこれほどまで色んな役割、姿を与えてきた。
21世紀に書かれた重要なテキストとしては、ジョナサン・ジットレインの『インターネットが死ぬ日』(2008)、そしてもちろんローレンス・レッシグの『アイディアのこれから(The Future of Ideas)』(2001)がある。両者ともコンピューターそのものよりインターネットアーキテクチャに注目している。ここで二人が共通して述べていることがある。それはつまり、ネットワークには知性による制御というものはなく、パケットを中身に関係なく運ぶだけの「愚鈍(stupid)」な仕組みだってことだ。それはノイマン型コンピューターも同じ。それはただプログラムを実行する。
レッシグ、ジットレイン、ドクトロウの著作は、コンピューターやネットワークアーキテクチャは、歴史的偶然でも技術決定論でもない理由を見事に説明している。「愚鈍なネットワーク」や「汎用コンピューター」は、意識的な設計上の決定だったんだ。
ノーマンにとって、汎用テクノロジーと格闘するハードウェア・ソフトウェア開発者とその「見えないユーザー」は、ひとえに歴史的偶然であり、また障害でもある。けれども、わたしたちにとって、汎用技術の普及と活用はニューメディア、デジタル文化、情報社会(そんなものがあるなら、だけど)を支える中心的存在だ。汎用コンピュータと愚鈍なネットワークは、このコンピュータ時代の核心的価値であり、ネットワークにつながったコンピュータと共に働き、そして生きる人々にもたらされるあらゆる素晴らしいことも、時にひどいことも駆動する力だ。こうした先見的な設計決定は守られねばならない。なぜなら技術的には、コンピュータやネットワークを「スマート」、つまり管理可能にすることは容易いのだから。
これって結局、「ユーザーか人々」かって話とはどう繋がるんだろう? 確かなのは――せめてドクトロウの講演動画を最後まで見るくらいには――コンピューターを忙しく使うユーザーだけが、こうした価値を守ろうとするってことだ。
わたしはここで、汎用テクノロジーという概念をユーザーにも当てはめてみたい。つまり、これまでの議論を反転させて、テクノロジーではなくユーザーに目を向けたい。汎用テクノロジーを三十年がかりで自分たちのニーズに良いように適応させてきた――「汎用ユーザー(The General Purpose User)」に。
汎用ユーザーは、メールクライアントで記事を書き、Excelで名刺をレイアウトし、ウェブカメラの前で髭を剃ることができる。Flickrなしで写真を公開し、Twitterなしでツイートし、Facebookなしで「いいね」し、Instagramなしで写真に黒枠をつけ、Instagram写真の黒枠を外し、「7時に起こして」アプリなしで7時に起きることだってできる。
こうしたユーザーは、より正確には「ユニバ―サルユーザー(Universal User)」とか「チューリング完全ユーザー(Turing Complete User)」と呼ぶべきなのかもしれない。ユニバーサルマシン、またの名を普遍チューリングマシン――アラン・チューリングが構想した、十分な時間とメモリさえあればあらゆる論理的課題を解けるコンピューター――へのオマージュとして。チューリングの1936年のビジョンと設計は、ノイマンの『EDVACに関する最初の草稿』や汎用計算機に先立って発表され、そして多分影響を与えている。
でも、どんな呼び方を選ぼうと、わたしが言いたいのは、アプリやデバイス本来の用途に関わらず、自分の目的を達成できるユーザーのことだ。そういうユーザーは、専用のアプリやツールがなくても、なんとかして目指すところに辿り着く。ユニバーサルユーザーはスーパーユーザーでもなければ、ハッカーもどきでもない。変わり者のユーザーってわけでもない。
ユーザーが思い描く自律性にはいろんな例やレベルがあるけれど、ユニバーサルである力はわたしたちみんなに備わっている。ときには、特定の作業をコンピューターに任せないという意識的な選択だったり、ときにはただの習慣だったりする。たいていの場合、クリックを一つか二つするだけで、自分が本来持っている汎用的性質は見えてくるものだ。
例えば、Twitterを一切使わないと決めて、自分のウェブサイトで朝ごはんの報告をすることだってできる。LiveJournalをTwitterみたいに使うこともできるし、TwitterをTwitterとして使うにしても、人をフォローする代わりに、ホームページを巡るみたいにプロフィールを見て回ることだってできる。
Twitterアカウントを二つ持っていて、ひとつはFirefoxで、もうひとつはChromeでログインすることだってできる。わたしはそうしているし、なぜこんなやり方をしているかはどうでもいい。もしかしたら複数のアカウントが使えるアプリがあることを知らないのかもしれないし、知っていても気に入らなかったのかもしれない。あるいは、インストールするのが面倒だっただけかもしれない。けどなんであれ、わたしは方法を見つけた。きっと、あなたもそんなところだろう。
ユニバーサルユーザーであることの心構え(あくまで心構えであって、ルールでも誓約でもない)とは、ハードウェアやソフトウェアと密につながっていく姿勢のことだ。それは「とても忙しい」ユーザーとは正反対の振る舞いだ。こういうインタラクションは、ユーザー自身にとって何より、自分の存在を「見える」ものにしてくれる。そして、もしインターフェイスデザインやUXの観点で捉えるなら、これこそが究極の体験=エクスペリエンスなんだ。
じゃあ、こういうユーザー体験を届けるためには、ソフトウェア業界はわざと不完全なソフトを作らなきゃいけないのか、あるいは既存のツールをこれ以上良くしないように抑えるべきなのか。そんなわけはない! ツールは完璧であっていいんだ。
それでも、「完璧なソフトウェア」という考え方自体は見直してもいいかもしれない。汎用ユーザーが使うことを前提にし、あいまいさやユーザーの関わりをもっと大事にしていくっていう点で、だ。
ありがたいことに、あいまいさはそう珍しいものでもない。ユーザーが機能を使おうが無視しようが、放っておいてくれるオンラインサービスもある。例えばTwitterの開発者は、わたしがフォローしていない人のプロフィールを巡回するのを止めようとはしなかった。オランダのSNS、Hyvesでは、ユーザーが背景画像をいじり倒せるので、フォトアルバムもInstagramもなくても十分楽しめる。Blingee.comは、本来は写真をキラキラにデコるためのサービスだけど、ユーザーがアップロードするスタンプは別にキラキラしていなくてもいいし、アニメーションですらなくていい。ただレイヤーを合成したものを返してくれるだけだ。
もうひとつ、ユーザーのユニバーサル性を育む極端な例を挙げておきたい。カナダの先住民向けSNS、 だ。あまりに“愚鈍”なので、ユーザーはプロフィールを更新するたびに用途を変えられる。今日はTwitterのフィードみたいに使われ、昨日はYouTubeチャンネルで、明日はオンラインショップになるかもしれない。見た目はとても古臭くて、17年前に作られたサイトみたいだけど、ちゃんと機能している!
概して、Facebookの外にあるWWWは解釈が開かれた環境だ。
それでも、ユーザーとちゃんと向き合って、自らの存在をより大きなワークフローの一部として捉えているサイトやアプリを見つけるのは難しい。奇妙に聞こえるかもしれない。だって、Web 2.0は人々に貢献を促すためのもので、「エモーショナルデザイン」はアプリを作る側と使う側の間に個人的なつながりを築くものだと言われているから。でもわたしが言いたいのは、そういうことじゃない。アプリケーションのワークフローに、ユーザーが埋めるべき隙間があること。スムーズさやシームレスさに綻びがあって、最後の仕上げをユーザーに委ねているような状態のことだ。
最後に、そんな極端な例をひとつ紹介して終わろう。おそらく学生による匿名プロジェクトだ。
Googleマップ + Googleビデオ + Mashup — クロード・ルルーシュ『ランデブー』
https://scrapbox.io/files/686ff834f5a45a9a748ab966.png
これは2006年、Web 2.0がちょうど盛り上がり始めた頃に作られたものだ。当時、マッシュアップは文化的にもメインストリームな芸術表現として大流行していて、アーティストたちはソフトウェア同士の新しい融合や、アーティストたちはソフトウェア同士を掛け合わせたり、境界を曖昧にしたりすることを面白がっていた。ルルーシュの『ランデブー』もそんなマッシュアップのひとつで、同名の有名なカーレース映画とパリの地図を一つのページに並べ、映画に登場する車の位置をGoogleマップ上で同時に追えるようにしている。
ただ、作者はビデオ再生と地図上の車の動きをうまく連携させられなかったらしい(あるいは最初からそのつもりがなかったのかもしれない)。その結果、ユーザーには「動画を再生してください。(…)4秒経ったら “Go!” ボタンを押してください」という指示が残されることになる。
ユーザーはボタンを一つどころか二つも押さなければならない! つまりこれは、自分でちゃんとタイミングを図り、タスクを完成させるんだよということを示唆している。作者はユーザーの知性を信頼していて、「とても忙しい」なんていう決めつけは微塵もない。
さらに興味深いのは、このマッシュアップで使われていた元の動画ファイルが削除されてしまったことだ。この作品を楽しむには、YouTubeで別バージョンの映像を探さなきゃいけない。わたしは見つけられた。あなたにもきっと見つけられるはず。
十分な時間と敬意があれば、あるユーザーにできることは、他のユーザーにもできる。コンピューターユーザーは、チューリング完全なんだ。
* * *
シェリー・タークルやダグラス・ラシュコフ、その他の偉大な思想家たちは、プログラミングを学び、コンピューターを理解しないと「プログラムされる側」になってしまうし、他のシステムに透明性を求めることもできなくなる、と言った。わたしもまったく同感だ。学校でのコンピューター教育が、アプリを操作することからアプリを書くことに舵が切られたなら、最高だと思う。でも、それは現実的ではないし、というか事足りないと思う。「コンピューターを理解するか、さもなくばユーザーになるか」という二択自体が間違っているのかもしれない。
ユーザーには、ユーザーである自分自身について学ぶ努力が必要だ。「汎用自動デジタル計算システム」のユーザーであるとはどういうことなのか、その意味を今一度理解する必要がある。
汎用ユーザーは歴史的偶然でも一時のきまぐれでもない。わたしたちはUNIXの「worse is better」哲学、インターネットのエンドツーエンド原則、ウェブの「工事中(under construction)」から「ベータ板」へと受け継がれた精神の産物だ。注意を促し、許しと関与を求めるこうしたデザインが、わたしたちをユーザーとして形作ってきた。わたしたちはいつも適応し、即興し、と同時にコントロールもしている。誤解を招きがちで不格好なデスクトップメタファーの申し子として、ドアノブがなくてもドアを開ける方法を知っている。
わたしたち汎用ユーザーは――ハッカーでも「人々」でもなく――自分たちに何ができるか、コンピューターに何ができるかを意識的に、あるいは無意識に問い続ける存在だ。わたしたちは、人とコンピューターの共生における究極の参加者だ。リックライダーが思い描いた形とは少し違うかもしれないけれど、でも、これこそが本当の共生なんだ。
Olia Lialina, 2012年10月
謝辞
わたしの英語を校正してくれたケイトリン・ジョーンズに。
そして、このページをデザインしてくれたドラガン・エスペンシードに。