Purist / Hybrids
https://vimeo.com/2385744
According to Davis, computational design is divided in two clans: the purists and the hybrids. The purists are Ben Fry, Casey Reas, John Maeda, Golan Levin, etc. They only use code. The hybrid, like himself, Niko Stumpo, Geoff Lillemon and others blend the code with art works.
コンピュテーショナル・デザインは2つの流派に分かれると彼は言う。純粋派とハイブリッド派だ。純粋には Ben Fry, Casey Reas, John Maeda, Golan Levinなどが属し、彼らはコーディングのみによって絵を書く。一方、Davis自身やNiko Stumpo、Geoff Lillemonらがハイブリッド派に属し、彼らは創作にコーディングを融合させる。
ジョン前田のようなPurists(純粋主義)派のアーティストたちがコードで絵を完成させるという側面が強いのに対し、Hybrid派は、初期値のパラメーターとしてペン先の動きを導入したり、コードによって生成したものを素材として使用するのみにとどめるなど、最終的に手作業が入ったり、あくまで身体性を伴った表現であるということのようです。
この対比は川野洋の「Art Simulation by Computer」と「Computer-aided Art」の考え方にも通ずるものがある。 コンピュータアートは大きく二つの種類に分けることができる。一つは「コンピュータ・エイデッド・アート(Computer Aided Art)」と呼ばれ、芸術家やデザイナーが自由で効果的なイメージを創り出すために、コンピュータを道具として活用するものだ。そしてもう一つは、コンピュータが人間の芸術活動を人工的に模倣する「芸術シミュレーションのコンピュータアート」である。川野は後者を重視し、それをさらに押し進め、コンピュータが自ら学び独自のアートを制作する方向性を追求していた。
個人的には、JoshuaのいうPurismには少し懐疑的。どこまでアーティストが作品の自律的な生成に関知することが「純粋主義」として認められるのかに恣意性が残るから。仮に丸をランダムに散らすとして、その分散をパラメーターとして与えることは既に作為ではないのか。そもそも「丸をランダムに散らす」という発想を人間がしている時点で、それは作品の自律的な生成とは言えないのではないか。
この辺のもやもやは、昨今のAI系プロジェクトにも感じたりする。実際に人間がチューニングや選定、修正という作為を与えているにもかかわらず、いかに「ゼロからAIが考えました」風を装うかに振っているような。本来なら徳井直生さんのAIと人間の共創モデルで説明するほうが適切であるにも関わらず。 その意味では、川野洋のk-Systemは、コンピューターが何を担うかをより限定された形で形式化したという点で、誠実な気もする。スタンドアローンな作品生成器としてではなく、(モンドリアンの絵画のように)入力に対して(マルコフ連鎖などの数理モデルを利用して)模倣するという用法にコンピューター・アートを留めている。
ちなみに僕のPurist / Hybridsの定義はこう:
Purism的: コンピューターにプログラムという自然を与え、その中で自律的に作品を生成させる
Hybrids的: コンピュータープログラムという自然の中に自分自身を起き、そこから立ち上がる無意識の中で作品の佇まいを変容させる
成果物を中心に捉えるのではなく、人間の制作体験を中心に二分する。Purismであることの感動は、実は作り手本人にしか知り得ない。自分がこしらえたプログラムが、自分の手を離れ、ルールの単純性に比して複雑な出力を創発する愉快さ、プログラムの中の他者性への気付きは、結局作品そのものには現れない。これは全てコンピューターによって自律的に作られました、という表明は、最終出力物だけをドーンと展示したところで伝わらないですよね。
道具としてのコード
コードを単なる道具としてみるのか、そうでないか、で見方が変わる部分であって、今日の「ジェネラティブアート」はその両方を含んでいると思う。
https://scrapbox.io/files/671b2fe17fc099f8be23d8c2.png
まー、これは絵になるよね