Messy Life / Creative Chaos
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https://www.youtube.com/watch?v=LksDk1rSIUc
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斎藤秀夫
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アル・ゴアの机
D.ノーマンが出していた例だが、これはまだなんかこう、「映え」ちゃってない?
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マガジンハウス的なるもの
身近に仕事をしている人が多い中でなんだけども、マガジンハウス的なものはどこまでいっても規範的な消費者を再生産する装置だと思っている節があるので、メイカー運動やDIYカルチャー、Don Normanの仰る所のmessy life的なものには焦点を当てないだろうし、これからも縁は無いのだろうなと思うbaku89.icon
『POPEYE』を読んでいると、消費することでしか人生の意味を取得できない、文化とは消費することである、という消費主義を煽る雑誌でさすが文化の最先端、東京はえらいがんばっておしゃれしてはりますなあ。ポパイが作り上げるのは、「ちょっと情けないおれら」みたいなシティボーイの生活の集合的スクリプトをつくり出し、全員が同じ「こういうのがいいんだよね」を楽しむ文化であり、そこにはいっさいの自律性もなく、資本主義の先の革命への意志もない。しかし『POPEYE』にあるのは、文化的コミュニティへの帰属へのそれ自体は否定されるべきではない憧れであり、消費主義によって簒奪されたこのコミュニティへの本源的な願いをマルクス主義的批評は拾い上げなければならない。 https://x.com/deinotaton/status/1741271764653703185 ポスト経済成長の時代における消費は「物を増やす」ではなく「エントロピーを下げる」方向に律動する
経済成長、豊かさへの憧れ = 3C, 新3Cの時代
ネゲントロピーとしての消費
「デスクをスッキリさせるマガジン」
家具をDIYすると分かるが、ものを作る上で最もコストがかかるのは、ネジ山やフレーム溝のようなグチャッと見える部分をいかに隠して、スッキリさせるかだったりする
アルミフレーム家具をスッキリさせるために二面溝を使うことのあざとさ
溝を隠す = 家具の拡張可能性を閉ざすことで、家具を「完成品」にしてしまう
完成概念
昔: 文化的交流が今より少なく、階級社会だっために、その人にとって調達可能な、その土地のヴァナキュラーな建築や調度品、家具を揃えると、自ずとそこにトーンとしてのまとまりが生まれた
カントリー調、ロココ調
今: 行き当たりばったりに買ってしまうと、様々な様式が混ざり合ってしまう
何か自分の中で明確な基準を持たなくてはならない
“Less is more”
なにをもってしてlessとするのか
シンプルさとは、客観的に観察可能な「スッキリさ」じゃない。傍からみてどれだけカオティックだろうと、本や書類が置かれた位置がその人にとってはしかるべき場所にあり、頭のなかではその対応関係が明快であれば、それはシンプルといえるんだ
ツルッとした 100%ホワイトの平面は、実は最も作為的に作られたものであり、ある側面からいえば more である
最も低エントロピー、つまり作為でもって自然な乱雑さを排除した状態だから
エントロピーが極大化した状態、つまりホワイトノイズこそが less かもしれないし、1bitのクリック音こそがlessかもしれない
その土地で採れる木の自然な木目もまたless
ヴァナキュラーなもの
けど一方で、(プロダクト, Web)デザイナーとして尊敬する人ほど、消費者として規範的に振る舞うように思うこともある
だからこそ消費者の欲望を肌感覚で理解できる
それを「欲望」とも思わず、純粋に「善い」ことだ信じられる
e.g. 使えもしないモジュラーシンセとTeenage Enginnering製品を見た目だけで買い込む
設計事務所のオフィスリノベ案件、「どうオフィスがスッキリしたか」だけではなく「何を捨てることでスッキリを演出したか」を明示してほしい
創業時からあったダサい椅子と机
「生活」もそう
エントロピーとの共生、丁寧な暮らし
10年前の己のセンスを呪いながら、一人暮らしとともに雑に買ったニトリの適当ケトルと100均マグを使い続けることが豊かさ